photographers' galleryで林道郎氏のコンセプチュアル・アートと写真についての講議があって聞きに行った。1960年代にヘゲモニーを握っていたグリーンバーグ及び抽象表現主義へのアンチとしてのコンセプチュアル・アートが、その前段のミニマリズムにおいて表れた作者性の否定は受け継ぎながら、しかし露になった物質性は消去していく。そこで重要になった「コンセプト」というものをルーシー・リパードの『6年間:1966年から72年にかけての芸術の非物質化』にある様々な作家達の言葉、あるいは制作上の技法(インストラクション)に注目しながら概観し、さらに、様々な概念操作の手段としての「彫刻」の表れの一形態として写真があった、という、乱暴にまとめてしまえばそういった内容で、親切、というか分かりやすかった。


要点が掴みやすいため、つい教科書的とか言いたくなるのだけど、もちろんそんな言い方はできない。現状、国内でコンセプチュアル・アートに関する優れた教科書などほとんどない(そういう仕事がない、のではなく一般的な概説書が不足している)のだし、である以上「教科書的」というよりは、ここで話されたことを教科書にする以外ないのだ。実際問題としては、林氏の取り上げたテキストはもろに現場のもので教科書というには「やや客観性がない」と御当人も冒頭で釘を打っていたけれども、それにしたって適切な取捨選択の元に拾われた作家の思考の痕跡が秩序立って展開され、こんな奇妙な運動がなぜ、どのような内的動機を持っていたか、そしてそこで写真というメディアがどのように位置付けられていたかが、まるで効果的な錠剤のようにまとめられていた。難しいのを承知で言うが、Art trace同様出版して欲しい。


コンセプチュアル・アートの政治性等、いくつか聞きたかった事も質議応答で別の人から出ていて、黙っていられた。一番興味深かったのは、ここでいくつかの角度から語られたコンセプチュアル・アートの臨界点のようなものだ。林氏がふと口にした「コンセプチュアル・アートの敗北」という言葉が象徴的だけど、匿名性を求め、「万人にアートを」と唱えながらスターが発生し、商業主義に回収された面があるというポイントは押さえるべきだと思う。逆に可能性もここで示されていて、ミニマリズムにおける反復が開示した「無限」という問題をコンセプチュアル・アートが徹底して考えたという林氏の話(あくまでアイディアであることを強調していたけれど)は面白かった。


なんとなく参加者相互に親密な雰囲気のある講議で、外部からこっそり混じっていた僕には質問し難かったのだが、不足を感じたのが日本との関係にまったく触れられていなかった点だ。フルクサスにはオノ・ヨーコも靉嘔もいたというのもあるのだけど、国内ではズレた形でコンセプチュアル・アートというものが受容された筈で、そのズレを検討しないと、今まさに行われているこの講議そのものの有り様が問えなくなるのではないか。恐らくもの派からネオ・ダダ、ハプニング、ハイレッドセンターetc.といったあたりが問題になるだろうが、ここで見えてくる日本のローカル性は、コンセプチュアル・アートにあるグローバルなものへの抵抗を含んでいたはずで、その抵抗のそぶりが半分虚構された日本的土着とかそこにあらわれる奇妙な身体感覚として露呈したように思う。逆に日本であっさりクリアされたりスルーされたことに欧米では苦心惨憺してる筈で、そういう所も検討できると思える。


あともう一つ、アーティではないものを目指したコンセプチュアル・アートが、現在見るとカッコ良い/悪いの差がある(質的判断がある)、というシャープな質問があって、これもたぶん日本での受容、というところから言えるものがあると思う。林氏の応答としては、確かにクラフトとしての完成度を見てしまうところはあるが、しかしそこで扱われているものは写真であれ活字であれ誰でも手が届く(ユニバーサル)なものだったんだ、という事だったけれども、おそらくこの「クラフトとしての評価」という所に日本、という問題が露出する(要するに日本人はこういうのに弱いと思う)。また、素材もテクノロジーもとことん“民主化”された時に逆に際立って個別のテクニックや知性というのが露出するのだ、という点に、コンセプチュアル・アートが内包する断層が見えるような気がする。そして、これこそが今作家にとって問われる問題だと思う。


つい「作家に」と言ったが、林道郎という人は「絵画はニ度死ぬ、あるいは死なない」という本でも感じたけど今貴重な「使える」批評家で、何がどのように使えるのかというと、現場=制作者の立場から見て「使える」のだ。この日の講議もそうだけど、林氏の手法には作り手の側からの視点があって、なんだか大学の先生という感じがせず作家っぽい。外からどのような体系がそこに見えるか、ではなく、どのように(作品が)作られたか、どのような運動が生まれたのかが、内側から提示されている。会場には恐らく学者や評論家を目指す人が多かったのかもしれないが、そういう人々より明らかにアーティスト、あるいはその志願者に届きやすい中身だったと感じた。


最初に英語のレジュメを渡されるが、逐次訳してくれるし、後から自宅で再検討するとき、会場の話を思い出しながら自分で英語を追ったり訳したりすると、とても良い復習になる。僕はまったくこの種の催しには行ったことがないのだが(最初に書いたこととかぶるけど)いかんせんコンセプチュアル・アート周りの教材というのが足りないので、次の講議も聞いておかないとと思っている。