ある画家が、ふと記した孤独、という言葉に、別の画家が共感する、と言ったとき、この二人の間には何か連帯のようなものが生まれたと考えていいのだろうか。もちろんそうではない、と僕は言いたくてキーを打っている。例えば画家どうしが、たかだか顔見知りだとか師弟、友人であるから、そこにあっさりと連帯がうまれるというのはあからさまな幻想で、むしろそのような近さがあるにも関わらず、どうしようもない孤独が各人を相互に、あるいは世界の全てから引き離してしまい、より孤独を強化する(人はひとりでいるときより人々の間にいるときの方が孤独だ)。


ここで話題にしたい孤独、というのはもちろん情緒的なものではない。少なくともこの場合、上記の画家が孤独であると意識したのは、要は彼が自らをモダニストであると宣した結果なのだ。特定の形式が、様々な“不純物”を排除し切り離し、その形式自体に純化してゆくのがモダニズムなのだとすれば、当然近代を生きる画家は純粋と引き換えに孤独になる。物語を、主題を、自然を排除し、市場性を、メディア(スキャンダル)性を、有効性と有用性を排除し、家族や友人や地域社会や伝統的価値観などとの有機的なつながりを排除し、ただ自らの形式だけを展開させてゆくのがモダニズムの画家なのであり、彼は例え家庭を愛し、地域社会で穏やかに暮らし、確かな人間関係を築いていたとしても(というか、だからこそ)、こと「作品」においては、それらとは原則的に切り離された、世界からの「自立」を生きる他はない。この「自立」というのは徹底したものであって、世界から「自立」したもの同士は一体化しようがない。煩雑な言い方になるが、「自立」は「自-立」なので、相互にも当然「自立」している。


こういった「自立」を生きることは、モダニストの画家にとってけして全面的に辛いものではない。どのような環境下にいようと、一度作品と対峙すれば、あらゆる繋がりが消え去って、ただ作品だけが世界から屹立しているという、ひんやりとした山の頂き(あるいは海の底)にいるような感覚は、むしろ独特の爽快感すら感じさせる筈なのだ。しかし、このような「自立」=孤独を回避する、あるいはそもそも理解できないという人々が現在の美術状況というものをおおよそ主導している。なにやら皆が皆「繋がりたい」という欲望に無造作に押しながされている。


例えば、冒頭のある画家も当然のように言及した村上隆という作家は、このような近代の孤独から撤退し、“世界のたくさんの人々”と、“欲望の熱い繋がり”を感じ取ることができるコマーシャルの世界へ、いわば反動的に回帰した作家であり、孤独フォビアとすら言えそうな強迫的な“人々の中へ”というベクトルは、あまりにも強力すぎて別種の孤独−コマーシャル王の孤独−すらまねき寄せている(これは、「批評空間」なんか誰も読んでない、と言ってサブカルチャー批評や社会学へ転向した東浩紀と平行線を描いているかもしれない)。


だが、問題は別にある。近代的「自立」=孤独を回避し、人々とのポスト近代的な『繋がり』に沈滞しようという営みは、果たして十分な効果を上げているのだろうか。僕にはとうていそうは思えないし、むしろ状況は悪化しているようにすら見える。そこでは絶えまない敵/味方の分別ゲームがえんえんとループしていて、それは近代という暴力と酷さにおいてはいい勝負だというのが正直なところではないか。例えば市場主義が、ある強力な排除と分断を基礎にもち、欲望の熱い繋がりで結び付けられている人々の外部に、膨大な不可視の人々を存在させ、彼等の怨恨が時にテロのような事態を産む時、彼等はどう対処しているのか。そしてそのような不安のコントロールの有り様を分析していく事が、コントロールそのものの高度化を押し進めるという再帰性に十分以上に自覚的でありながら、あるいはそのことを目的として人々の欲望のコントロールの専門家になっている人々は、十全に孤独を回避できているのだろうか。当たり前だが、そんなことはできはしない。ただ囲われた範囲でだけ「効果」「有用性」(すなわち、他人の反応)が確認でき、その囲われた範囲(例えばマーケットという村)の「外」の不安要素を拡大再生産しているだけだ。


誰もが「自立」=孤独を生きられるわけではない。また、孤独を生きている人間が、それを良し、と思っているわけではない。そもそも孤独を生きている人間は、選択の結果それを選んだのではなく、不可避的にそこに立ち至ってしまった筈だ。ただ、そのような風景を見ていて思うのは、孤独を脱し、多くの人々との繋がりを回復できたと思っている、あるいはそのふりをしている人々の背後にある地獄よりは、“単なる孤独”を生きている人間の「清々」とした寂しさの方が、遥かに希望がもてるのではないかという予感がある、ということだ。


僕が先週、地方で展示をしている時に目撃したのはそんなことで、もちろんこれはささやかな思考でしかないのだけど、今、それでもこの程度の思考を刺激してくれる展覧会が沢山あるのか、と言えば、やっぱり薄ら寒い状況しかないというのが正直なところだと思う。