昨日の「げんしけん」についてのエントリで、書きはぐった事がある。この佳作の、ある意味最大の問題点は「ヌルい女性おたく」が描けなかった所だと思う。当初の「現視研」のメンバー達は、特徴はそれなりにあるもののやはり全体として消費専門でダメであることを自覚(というか自己規定)している男性おたくばかりなのだが、そこに順番に関与してくる女性キャラクターは、多少の紆余曲折はあるものの、結果的に極めて能力の高い人物に設定されている。卒業と同時に店を出すことを決めていて英語も習得している春日部咲は別格としても、登場初期こそ自らのやおい趣味にコンプレックスを持っていた大野加奈子は「現視研」の田中と交際する中でいつの間にか全面的な自己肯定スーパーポジティブキャラ化し、そのコスプレ趣味を炸裂させて週一でコスプレイベントをこなす程になるし、荻上千佳にいたってはプロデビューするほどのマンガの描き手になってしまう。


対して男性キャラクターは皆それ程、特技や才能を社会的に出力しようという意欲が薄いか持たない。全体に、弱い男:強い女という、この手のおたくユートピアを描いたマンガにありがちな構図が物語りの大枠を規定してしまっていて、いくら細部が丁寧であっても、結局こういう所で単純な骨格を基礎に持ってしまう。「弱い主人公の少年」が「高いテンションのトラウマ少女」と関わることで成長する、なんていうのはやはり「げんしけん」内で一種のネタとしてあったマンガ内マンガそのもので、ここで木尾士目はネタとベタを混同してしまったとしか思えない。もし意図的にやったというなら、それはある意味ニヒリズムというもので、こういう商業的逃げを開き直ってやってしまったとすると、この作家の次作は物凄く危うい。


事実、「げんしけん」内のマンガ内マンガを、より売れ線に変更して違うマンガ家に描かせ、自分は監修という役割に納まる仕事を現在の木尾士目はやっていて、もちろんこれまた当人は一種のネタというか、箸休めか迂回路みたいなつもりでいるのだろうが、気付けばこのネタもまたベタに落ち込むという可能性も十分あると思う。荻上千佳はトラウマもなにもない、単にヘビーなやおい趣味者としてほぼ「現実の恋愛に興味がない」キャラクターであって欲しかったし、そこに想いをかけて理不尽な目に合いながらなんとかやっていく笹原、というような展開だってありえた筈で、もし「げんしけん」が描き切れていない部分があれば、このへんだと思う。「ダメなおたくが、しかしなんとか(現視研という中間集団をステップに)やっていく」というのがあるべき姿だったと思うので、なんだかウルトラな力を持った荻上があっさり(アメリカのおたく美少女を迎えいれながら)現視研会長におさまる、というのは、ちょっととってつけたかのようだ(朽木の扱いにはある種の愛情が十分感じられ、あれで良かったとは思うが)。


いずれにせよ「ヌルい女性おたく」と男性おたくの接点が、なんらかの形できちんと描かれれば、多分そこでは恋愛至上主義は崩れるか少なくとも変質する。ここにトライできていれば「げんしけん」は更に新しい「友愛」の地平を開拓できた筈で勿体無かったと思う。