国立新美術館についての先日のエントリ(参考:id:eyck:20070305)に関して、メールにて「国立新美術館は英語表記ではアートミュージアムではなくアートセンターであり、その差を考慮すべきではないか」との指摘を受けた。まず僕は先のエントリでは、国立新美術館がアートミュージアムではなく(コレクションを持たない)アートセンターである点については批判していない(個々の美術館にある既存のコレクションが有機的な連動の結果、意義ある展覧会に結実するなら、それは良いことだと記述もした)。僕が批判したのはまず第一に「20世紀美術探検」展における美術作品の扱い(簡単に言えば展示が雑なのだ)についてであり、そこから感じ取れる、国立新美術館の美術というものに対する姿勢、およびそのような姿勢を招来している、この「美術館」の背景あるいは構造だ。そしてそのような背景が漠然と隠されていることと連動しているかのような、国立新美術館の建物まで含めてその総体をハリボテに見えると判断した。


その上でさらに言えば、「コレクションを持たず動的に様々な作品が行き来する、開かれた施設」であることが、21世紀形のポスト近代における新しい美術施設としての国立新美術館のコンセプトである、というような言説がほとんど成り立たないことは追記しておく必要があるだろう。そもそも国立新美術館の基となった東京都美術館は、さらにその前身であった東京府美術館が、コレクションを持たない美術団体向けの貸し施設として運営されながら、ギャラリーともアートセンターとも分類されず「美術館」と呼称されてきた事に対する批判を受け、貸し施設としての機能も受け継ぎながら、事後的に現代美術のコレクションも持った(現在このコレクションは東京都現代美術館に移動)という歴史を持つ。なぜそのような批判が大きくなったかといえば、東京府美術館の有り様が、美術作品を単なる人集めの興業として利用するだけで、きちんと評価し体系的に収集していくという近代西欧形の「アートミュージアム」と乖離していたからだ。しかも、この東京府美術館のような姿勢は以後の日本の美術館のあり方におおきな影響を与えたことは、ウィキペディアの「東京都美術館」の項目にも記述されている。

実際、「コレクションを持たない」事が、何か新しいコンセプトであるかのようなことをうたった美術館・美術施設は日本に既に多数ある。民間の百貨店が運営する「美術館」などがいい例だろう。このような、私企業の事業の一環としての「コレクションを持たない美術館」とかを、いまさら国が模倣することが、どう「新」なのか不明瞭だ。


アートミュージアムではなくアートセンターだ、という国立新美術館は、こうして見ればぶっちゃけ単に出発点の東京府美術館に先祖帰りしただけのものであって、様々な批判からなんとか美術館の体裁を整えてきた東京都美術館の、相応に厚みのある歴史を、綺麗さっぱり忘却した施設・制度になっている、というのは意地悪にすぎる視点だろうか。とりあえず、過去の歴史まで含めて考えてみれば、新時代における「脱近代的アートセンター」と格好良く言えるものではない。更にいえば、「コレクションを持たず動的に様々な作品が行き来する、開かれた施設」という理念に関しては、それこそ東京都美術館において1957年から1963年まで開催された「読売アンデパンダン展」でラジカルに実現されている。ここで読売アンデパンダン展に関する詳しい記述や評価は避けるが、アンデパンダンの名の通り、無審査でありとあらゆる「作品」が導入され、展開された事は、日本美術史上エポックとなる出来事だった事は確かだろう。


別に国立新美術館が今改めて読売アンデパンダン展を反復すべきだ、とは言わないが、「様々な作品が行き来する、開かれた施設」という言葉の内実が、なんのことはない既存の美術団体の内部にいる者だけの権益であって、その外からみればあまり「開かれて」いない事実を考えれば、そしてそのような構造を隠すかのような形で、どこかから引っ張ってきた作品−それは、「古い」タイプの美術館が身銭を切ってコツコツと集めてきた作品だ−を利用した展覧会がなされるにすぎないのであれば、もう「アートセンター」だとか「アートミュージアム」であるとかいう議論は無意味になるだろう。このような、「古い」タイプの美術館=近代美術館を、いわば外付けハードディスクのように利用して任意にデスクトップに呼び出すような考え方に可能性がまったくないとは言わないが、その可能性を追求するなら相応に真摯な思考が必要であって、現状の国立新美術館にそんな気配は見えないし、さらに悪いことにサブカルチャーの成果を、都合良く使ってやろうとする方向性すら打ち出している。


このような、様々な問題点を隠しながら表面だけ何か新しそうなイメージを虚構的に(ハリボテのように)発信している国立新美術館を、ものの見事に表象しているのが黒川紀章氏の「ただの箱を皮膜の飾りをくっつけて隠した」建物で、もしこれが国立新美術館の実体を見抜いた上で狙って作られた「あえて」のものなら、逆の意味で黒川紀章おそるべし、と言えるかもしれない。が、地下の空間を利用し周囲の環境に埋込まれた、前川國男の手になる東京都美術館の堅実かつ合理的な建物と比べれば(僕は東京都美術館前川國男の最高の作品だとは必ずしも思わないが)、その建築としての良さは雲泥の差だと思う。最後に、改めて強調するが、この美術館で見ることのできる作品については、もちろん個別に判断されるべきだ。