美術の物語
ゴンブリッチの「美術の物語」を買おうか買うまいか悩んでいる。この本はかつて美術出版社から「美術の歩み」上下巻として出ていたものの新訳だ。以前の「バカにも分かる美術の本」というエントリでは筆頭に紹介している(参考:id:eyck:20050406)。美術の入門書として明らかに世界的、かつ最も重要な本だったにも関わらず日本では長い間絶版だった事を考えれば、この本の再出版はたぶん、というか確実に今年の国内の美術ニュースとして最大だ。同格で匹敵するのはウフィッツィ所蔵のレオナルド「受胎告知」が来ることくらいで、他はフェルメールの「ミルクを注ぐ女」の来日ですらやや見劣りする(!)し、ましてや他のいかなる展覧会や作品、出版物の登場も、ちょっと霞んでしまう気がする。


僕は昔、古本屋でたまたま目にした美術出版社版「美術の歩み」を、ずいぶんと気楽に購入した(そういう値段だったのだ)。名前だけは聞いていたゴンブリッチだが、いかんせん「芸術と幻影」「装飾芸術論」とかを買うには思いきりが必要だし、ぱらりと見た限り、はっきり初心者向けだったので、これさえ読んでおけば「ゴンブリッチ読んだことがある」と言えるんじゃないかという、イージーな動機だった。だが、いざ読み始めたら引き込まれた。僕がこの本から学んだのは、こまごまとした歴史順序やなんか以前に、美術というものに対する姿勢そのもので、それは序文に書いてあるゴンブリッチ自身の、この本に対する態度の表明部分に集約されている。旧版でなんだけど長めに引用する。

本書を計画しているときも、また執筆中も、まず私の念頭に浮かんだのは、今しもちょうど自分自身のために芸術の世界を見つけ出したばかりの、そうした十代の若い読者であった。そうかといって私は、ある一つの事を除いては、若い人の書物が大人の書物と違っているべきだなどとは一度も考えたことはない。それはどんな点かといえば、つまり、若い人のための書物は読み手が批評家であること、それも、最も厳格な批評家、見せかけの述語やいいかげんな感想などをたちまち見破り、それに憤激する批評家だということを考慮しなければならぬという点である。

数多くの専門語を制限するというこの決心とは別に、この本を書くに当たって、私はいくつかの独自の規約を自分自身に課すことにした。これらはみな著者としての私の生活にとっては面倒なものであったが、読者の側ではこれによっていくぶん苦労が軽減されると思う。これらの原則の第一は、図版で示し得る作品以外は論じないということである。私はこの書物を人名の羅列に堕落させる気はない。

このことが私の第二の原則を導き出している。それは、私自身を真の芸術作品に対してだけ向けること、単に趣味や流行の見本として興味をそそるものは切り捨てるということである。この決心は、叙述上の効果に大きな犠牲をはらわせた。誉めることは、けなすことに比べればずっと退屈である。何か面白い奇怪な作例を挿入することは、ちょっとした気晴らしにはなるであろう。しかし、そうなると読者は、芸術のためにこそ書かれたが、非芸術のために書かれたのではないはずのこの本に、なぜ私が好ましくないとしているような作品が陣どっているのか、詰問するのが当然であろう。

第三の原則も、いささか自制を要するものであった。有名な傑作が私自身の好みによって押し出されないように、いいかえれば、図版を選ぶ際に、内容を個性的なものにしたいという欲望をできるだけ抑えようとしたのである。

もう一つ付け加えた原則も、同じくこのやむをえない削除に関するものである。例に迷う時、私は常に、図版でしか知らない作品よりも、原作を見たことがある作品を論ずるようにした。私は、この原則を絶対的なものとしたかったが、過去十五年間というもの、美術愛好家につきまとっていた旅行制限という不測の事態のとばっちりを読者にまで及ぼしたくはなかった。さらに、これは私の決めた最後の原則であるが、いかなるものであっても絶対的な規則にせず、時としては自らそれを破ることも敢えてした。
(「美術の歩み」上巻“はじめに”一部抜粋/訳・友部直)

こういった箇所を読んで、ああこの本は信用できるのだな、と思った。ここでの信用、というのは、学問的知見とか判断の正確さ、という事では無い。個々の作品、作家に相対する、ゴンブリッチの持つ敬意の有り様が「信用できた」のだ。変な話、もしここに書かれている歴史的事実等に間違いが含まれていたり、作品を語る言葉が時代の片寄りを抜け切れていなくても、そのような「間違い方」こそが信用できる、とすら思う。当たり前だが美術作品の見方に正解などあるわけがないし、歴史的事実や解釈だって時代と共に変化したりするし(新資料の発見だってあるだろう)、そもそも「美術史」というものそのものが、一種の壮大な虚構であることに違いは無い。言ってみれば、どのような大学者だろうが素人だろうが、作品の前では全員が「間違える」ことから逃れることなどできないし、だとすれば「どのように間違えるか」という事だけが問題なのだと思う。


こういう言い方をすると、もしかしたら「正解」がない以上、好き勝手に見ればそれでいい、みたいに言っているように見えるかもしれないが、もちろんそうではなくて、自分の諸能力を動員して、極力作品によりそって見る事を要求してきてしまうのが良い作品、というものだろう。ここで基準になるのはあくまで実作を見た時の、なんともいえない確かな手ごたえで、そういうものがあるからこそ人は何かを考えてしまうものだし、それは例えば「厳密に作品を見る」という事を先験的にドグマ化してしまうような、本末転倒な態度の正反対の場所にある(こういう規範意識は、解釈するために作品を物色するような退廃に繋がっていく)。


ゴンブリッチといえばヴァールブルク学派の代表格のひとりで、言ってみれば「書斎(図書館)派」の美術研究者の代名詞みたいなイメージもあるけど、この本から見えてくるのは、理屈抜きで絵画や彫刻を見るのが好きな、作品の前で謙虚に振る舞う一個人の姿だ。まず最初に美術を学ぼう、という人に向けて、あきらかに前述の姿勢こそを伝えている本だと思うし、何よりいいなぁ、と思うのは、この本に書かれている作品が、凄く見に行きたくなる、という点だと思う。美術、というものを歴史化していく=虚構化して語ることへの恐れを抱えながら、しかしそういう情熱を産み出してしまう作品というものへの深い感情が、意外なまでに露出しているのがこの本で、そういう意味では他のゴンブリッチの本とは感触が明らかに違う。


こういった美術史=虚構、という(複雑なニュアンスを含んだ)認識をはっきりと前に出した「美術の物語」という書名がまず新鮮だったし、図版がカラーで精度の高いものになったみたいだし、多分最新の美術史の視点からの補完も行われているのだろうし、なによりこの本が再刊されたという“事業”を支持したいという気持ちから、お金を改めて払って旧版と並べて所有すべきかなと思うのだけど、いかんせん僕は本に対してはプラグマティックで、既に持っている本を新訳が出たからと言ってもう一回買うという習慣がない。しかも旧版では上下巻だったものが1冊にまとめられたことでハンディさ(移動中に本を読む僕が一番求める機能だ)は完全に失われた。まぁ持ち運びたい時は旧版でいい、という考え方もあるだろうし、なんと言ってもこの手の本は、放っておくとまた絶版になりかねないので、ちょっと勇気を出して買おうかと思う。