FIASKO‐大失敗 (スタニスワフ・レムコレクション)

amazonで「美術の物語」を買うことにした。僕は本は断然(こういう「ダンゼン」て、石坂洋次郎あたりの小説で、学級委員長みたいな女学生が言いそうだ。「その意見にはダンゼン反対するわ!」とか)リアル書店でぶらぶら歩きながら買うことにしてるんだけど、流石に「美術の物語」は大きくて重い。一昨日新宿の世界堂で画材を買ったついでに、紀伊国屋に寄って買おうと思っていたけど、ずっしり重い絵の具チューブをかかえた上で「美術の物語」を買う気力がわかなかった。そうでなくても書店というのは、放っておくと2時間くらい消費してしまうので、ここは割り切って、今まで2回くらいしか利用していないamazonを使った。送料ただはありがたいが、代引手数料が少し悲しい。重い思いをしなくていい代償と考えれば安いのだろうか。


ついで、というわけではなかったのだけど、ドゥルーズの「襞―ライプニッツバロック」も同時に買ってみた。これは美術の本とはやや言い難いのだろうけど、この複雑な世界をその複雑性において記述する、というドゥルーズは、いわばアクロバティックにねじれた曲線の本を書いているのだろう。ぼくはゴンブリッチの「美術の物語」は大好きだけれども、それがどんなに誠実で魅力的な本だとしても、ぐちゃぐちゃに入り組み体系など成り立ちようもない無数の作品の集積を、まっすぐな直線に整理して記述していることに変りは無い。それを自覚しているからこそ、ゴンブリッチはあくまで「物語」と名付けたのだろう。とにかく再度ゴンブリッチの、情熱的なストレート・ストーリー(という映画があった。良い映画だった)を読むのと平行して、ドゥルーズのうねる曲線のテキストも読みたくなった。


ドゥルーズは「アンチ・オイディプス」が文庫になっていて、僕はこれはハードカバーで持っていたのだけど、昨年の文庫化で、ハンディになった点も含めて、本当に読みやすくなった(読みやすくなった、といっても難解は難解だけど)気がする。もちろん、ちゃんと事前に浅田彰氏の「逃走論」(これもハードカバーだ)なんかを再読して、しっかり「予習」もしたのだけど、こういう事は以前もしていたのだから、やはり訳が滑らかになっているのだろうか。例えば任意に抜粋して引用してみると

「ある子供が打たれる。子供たちがぶたれる」という幻想に再び戻ることにしよう。これは典型的な集団幻想であり、これに欲望が備給しているものとは、社会野とそれが行っている抑制的諸形態そのものである。もしそこに演出があるとすれば、それは社会的欲望機械の演出なのだ。だから、私たちはこの機械が生み出した内容を抽象的に考察して、少女と少年の場合を分離し、あたかも少年少女のそれぞれが、いつもパパやママとの間で自分の関心事にかまけている小さい〈私〉であるかのように考えてはならない。逆に私たちは、それぞれの個人の場合においても、また同時に集団幻想を主導的に組織している社会体の場合においても、少年-少女あるいは生産と反生産の諸代行者-両親といった集合と相補性を考察しなければならない。少年たちが、幼い少女(見る機械)を前にしたエロティックな舞台で教師に打たれて大人になるのと、また彼らが、ママを通じてマゾヒスティックな享楽を味わう(肛門機械)のとは、同時なのである。だから、少年たちは幼い少女たちになることによってしか見ることはできないし、少女たちは少年たちになることによってしか、体罰の快楽を感ずることはできない。これはまさにひとつのコーラスであり、モンタージュなのだ。
      (「アンチ・オイディプス」文庫版/訳・宇野邦一

文意が、かなりイメージしやすい。僕はそもそもドゥルーズそれ自体に対する興味というよりは、フロイトを読んでいた時に、フロイト批判の文脈で読んだのだけど、最初から通して読もうなんて気はなかったとはいえ(あの本を「最初から最後までリニアに通して読む」というのは、根本的に間違った態度だと思う)、かなり『?』という気分だったのを思い出す。これは「ミル・プラトー」も文庫化も、かなり楽しみな感じがしてきた。できれば「襞―ライプニッツバロック」も文庫化を待ちたいのだけど(あり得るのか?)、本と言うのはタイミングが全てだったりするので、ここはしかたがない。今見て思ったけど、文庫版の「アンチ・オイディプス」は、2006年10月20日初版で、11月10日に2刷りが出てるのが凄い。まったく関係ないが、これまた先日買ったレムの「大失敗」の装丁が凄くかっこいい。