美術館のススメ、みたいなエントリを書いておきたくなって、さんざんいじり回した挙げ句廃棄した。「美術の物語」で、やっぱゴンブリッチ分かってるじゃん、と思えたのが巻末の参考図書に「旅行ガイドブック」が上がっていることで(良い旅を!とか書いてある)、こういうのが楽しくて、つい自分でも「書を捨てよ、町に出よう」みたいな気分になり、首都圏の美術館案内みたいなのを書いてしまったのだ。いや、そういう気分になったのは別になんの問題もないのだけど、そもそも「流れに沿って」美術作品を見るなんて全く意味がないし、ずらずら泥縄式に見た中で自分で関係性を掴むのが、本当の意味での美術館のリアリティだ。理想はぶらっと好きなときに好きな美術館に行って、あとで「あ、そうか」と繋がったり組み換えられたりすることだと思うので、どう工夫してもダメなエントリは捨てることにした(こういうのは実は凄くblog向けな企画ではあるのだけど、またそれがダサい)。


ああでもない、こうでもないとキーを打ちながら思っていたのが取り上げようとしていた美術館の「たたずまい」で、この感覚をエントリにまとめようと思うとどうしてもその「建築」について書いてしまいがちになる。けど、これはタテモノだけで済む感覚ではない。例えばポーラ美術館について書こうと思えば、ガラスで編み上げられ宙に浮いた、自然光燦々のエントランスについてだけ書いても物足りなくて、そこから見える緑の箱根の森や、そこに至るまでの登山鉄道から路線バスの道のり(なかなかアップダウンが激しい)までも書きたくなるし、東京国立近代美術館であれば、それが谷口吉郎*1の手になる重厚な空間で組まれているのだということだけでなく、竹橋の地下鉄駅から毎日新聞社の、本当にモダンな香りのする(高村薫の小説とかに出て来そうな)社屋を一部通りながら地上に出て、堀にかかった橋の向うに見える皇居・北の丸公園と、高く走るこれまた古い首都高速の渋滞とかまで含めて、周囲にはっきりと「昭和」の濃厚なにおいが漂っていて、それこそが「東京国立近代美術館」なのだと言いたくなる。


国立西洋美術館であれば、そのこじんまりしたボリューム感は、確かにコルビジェの原案を実施設計に書き直した際に「モデュロールを過ってリファーしたのではないか」という磯崎新の指摘が的確なのかもしれないにもかかわらず、まさにその「小ささ」が一種の魅力になっているような気もするし、そこから東京国立博物館までの道のり、さらに芸大付属美術館へと辿ったあと谷中のギャラリーバスハウスまで抜けて日暮里駅まで至るラインが、これからの桜の季節には独特な(なにしろ谷中墓地などは、たくさんのこけむした墓石を大勢で取り囲んで宴会をしているのだ)ムードに包まれることも思い出される。鈍行電車で延々運ばれた先、さらに路線バスでいったいどこまでつれられていくのかと思った果てに“出現”する川村記念美術館の、洋風だか和風だかイマイチわからない庭園は、いっつも着いて作品を見たら閉館の5時が迫ってしまっていてまともに歩いた事がなかったりするが、それでも軽井沢のセゾン現代美術館よりはアクセスが楽で、この美術館などはあの今はなき池袋セゾン美術館で行われた展覧会の名残り、というか記憶まで含めて一言言いたくなってくる。


ついでに書くけど東京都現代美術館といえば、木場の殺風景に過ぎる風景の中に文脈抜きでつっ立っている姿がかっこ良すぎるが、なににもまして困るのがちょっと御飯でも食べたいと思っても木場駅近くのバス停の所にあるラーメン屋か牛丼屋くらいしか選択肢がないことだ。そこへ持って来て美術館内のカフェが、ダメ確定ばかりの美術館カフェの中でも随一のダメさで、そこで売られているコーヒーとサンドイッチの絶望的なハーモニーは特筆に値するし、そう考えればいくらなんでも単価が高いとはいえ、原美術館のカフェは、少なくとも腰を落ち着けて一息つく気分にさせてくれるというだけでチャーミングだと言っておきたくなる。何も都心やリゾート地まで足を運ばなくても、各地元に1つくらいは近代美術館ができてしまっているのが均質化ニッポンのそれなりの成果でもあって、例えば埼玉県立近代美術館などは椅子のコレクションみたいな特色を頑張って作っているし、エントランスにマッキントッシュの椅子がものすごく日常使いで(たしかアンケート用紙に記入する机かなんかの前に置かれている)あるのもなかなか楽しい。


と勢いづいて結局いろいろ書いたはいいが、自分自身が今ちっとも美術館にいけてない。横浜美術館須田一政展も太田記念美術館の浮世絵展もいけなかったし、そういえば上野のダリ展も五反田のDNPミュージアムラボのジェリコーも見のがした。とりあえず見ておくか、と思っていたフンデルト・ワッサーも日本橋でやってたのに行かないままだったし、気付けば知人関係すらフォローしていない。いや、その人たちの展示は知っている人だから行くのではなく、あくまで美術的興味で「行かなければ」と思っているのだけど、現に足を運んでいないのでは話しにならない。理由はごく簡単に時間の都合がつかなくて、しかも気づけば6月の展示まで時間がなくなっていて焦ってたりもする。こういう時こそ他の絵を見ておくべきなのだが、なんかもう何もかも後手後手だ。というわけで人に美術館をすすめてる場合じゃない、お前が行け、てな状況だったワケで、なんか知ったような事を書いたエントリはやっぱり廃棄して当然だろう。

*1:アップロード時に前川國男と誤って記載していた。メールで御指摘下さった方に感謝します