上野の森美術館で開催中のVOCA展に出品されている、小林達也氏の絵画「ざわざわと生きている」について書く。連結されたパネルに、ガゼンインテンペラ・色鉛筆・ガッシュジェッソ等で描かれている。サイズは縦が3m40cm、横が2m50cmとなる。画面内には具象的なイメージはなく、多数の色面に分割されている。中央付近でややその色面の単位が細かいが、深奥空間を形成することはない。ガゼンインテンペラのテクスチャはフラットだが、ところどころで薄く溶かれムラやボケがある。また、画面内のあちらこちらに、細く絵の具が垂れた跡が垂直な線として何本も確認できる。各色面は面状とだけは限らず、線、あるいは線を並べた部分なども含めて構成されており、それらが互いに上になり下になりしている状態は、色紙のコラージュのようにも見える。赤・青・褐色といった色は、その濃度や面積の差が各色面の強度を変化させ、実際の色数よりも幅広く感知できる。


中心(焦点)がなく具象的なイリュージョンもないが、しかしいわゆるオールオーバーな抽象画とは違った構造を持っている。そここそ小林達也氏の特質だ。逐次的な、隣り合う相互の色面に対する差異化=断片化をくり返して行く小林氏の「描き」は、最後まで全体性を仮構することなく視覚をスライスし、終わりのない微分と連結へ見るものを引き込む。色面と色面の境界線の隣り合い方のバリエーションは、各色面相互の力関係を累算的に複雑化させてゆき、長い間見ていることが可能になる。ある部分と部分の関係が、別の部分と部分の関係に影響し、その影響関係は更に他の部分へと波及していってその連鎖は終わる事がない。また、各色面の色価(ヴァルール)は、複雑化した関係性の中で固定した位置に落ち着くことができず、観客の視界の中で微細に振動するように前後して見え、その総体が画題通り「ざわざわと」うごめいている感じがする。


昨年の、ガレリア・グラフィカの小林氏の個展において見られた最良の作品と比較すれば、画面サイズの大形化に伴って若干「完成度」のようなものは低下したかもしれない。だが、その分画面に隙間が発生し、その隙間が視覚上の各色面のブレ幅を大きくさせるような効果も発揮している。いずれにせよ、純粋な色面の散乱が、スタティックになることなく永久運動してゆくような小林氏の絵画は、何事かの再現、ペインタリーな抽象絵画が依拠しがちな「奥行き」とは無関係であることは重ねて強調されるべきだろう。固有な手法の展開が、ステラのフレームを反復してゆくだけのようなデッドポイントに落ち込むのではなく、むしろ画面を活性化させ湧きたたせ、終焉を感じさせない高原状のエネルギーを発散させていく姿は、どこかポロックのようだ。最も精緻かつダイナミックだった時期のポロックが、明らかに色彩に犠牲を強いていたことを考えれば、こと色彩に関してならば小林氏の作品の方がポジティブな成果を実らせていると言いたくもなる。更に言えば、ぺたりと乾いたテクスチャーの張り合わせは、マチスの晩年の仕事に直結するようなもので、現在の日本でこのような作品が静かに、かつ確実に生産されている事に驚く。


高校で画家・野沢二郎に教育を受け、野沢二郎と同じ筑波大学に進学し、野沢二郎と同じように美術教師として生計を立てながら作品製作を続行してきた小林氏は、しかし作品ではむしろ「非野沢二郎的」な資質に基づいて製作している。具体的に言えば、二人は絵の具へのアプローチが異なる。野沢氏が、絵の具(顔料)への執拗な触覚的アクセスのくり返しによって、“厚い”絵の具の積層された物質性と、オールオーバーな深奥空間が一体化した「触覚的イリュージョン」とも言うべき画面を形成してゆくのに比べて、小林氏は遥かに視覚的であり、“薄い”ガゼンインテンペラの断片化された重ね合わせが、どこまでもイリュージョンを廃した画面を成り立たせている。野沢二郎/小林達也とは、すなわち厚い/薄いであり、あるいは油彩/水彩であり、少ない色数/沢山の色数だ。


大画面への指向性などには野沢氏の影響が見てとれるし、野沢氏の「モチーフは絵の具だ」という発言にシンパシーを示す所も二人の共通項かもしれないが、しかし画面上ではやはり二人の差異こそが明瞭に際立つ。ただしここで、小林氏と野沢氏の間にエディプス的心理関係を見る事ほど安易な発想もない。要は小林達也という画家は、その画歴の最初期にこそ野沢二郎の影響を受けはしたであろうものの、後は完全に、理念の水準においては独立独歩で自らのホリゾントを展開してきたのだ。小林氏の作品から連想を繋いで、野沢二郎という「厚い絵の具」に対して、その隣で「薄い絵の具」として自らを差異化し配置して来たという言い方すら間違いなので、既に短いとは言えないそのキャリアにおいて、小林達也氏は単に単独者として来たにすぎない。あえていえば、そのように「単独」であること、その姿勢こそ野沢二郎氏の最大の影響かもしれないが、やはりこのような事は外部からの推測に過ぎないだろう。


モダニズム絵画がその純粋化の果てに急速にゼロ化した反動から、あからさまな具象絵画への退行がほぼ世界中で進行している状況下で、そのような潮流とはまったく無関係に、ただひとり幸福な絵画の実験を続行している小林達也氏は、その反時代性になんら気負いを重ねることなく伸びやかに歩き続けている。その存在感は、会場ではけして派手な主張をしているわけではないだろうが、その絵画の質は、明らかに群を抜いていて飽きることがない。


●VOCA2007