先日photographers' galleryで平倉圭氏の講座「ゴダール・システム」の第一回を聞いてきた。僕は以前平倉氏のtxt「ダイアグラム的類似」について、『「見ることに内在」し「見たことについて語ってはならない」というゴダールを、言葉で記述している困難にぶつかっている』と書いたことがあったが(参考:id:eyck:20060419)、印象が変化した。平倉氏はその困難を回避することなく愚直なまでの正面突破を試みており、結果無謀なアタックそれ自体が、生産的な輝きを帯びている。簡単に言えば、平倉氏の分析を聞くと、それが妥当かどうかという次元とは別に(ゴダールに関して無知な僕にそんな判断はできない)、ゴダールの映画が新鮮な面白さを持って見えてくるのだ。恐らく問題点として挙がるのは「いくらなんでも面白すぎる」というもので、このような印象は、個人的にはかつて岡崎乾二郎氏の「経験の条件」におけるカルミネ教会ブランカッチ礼拝堂の分析を読んだ時以来だ。3回の講議の1回目だけを聞いて何か書くのは危険かと思ったが、メモとして残しておく。


内容は、まずゴダール映画の特質を「何か“わからない”という感覚が残る」点にあるとし、それをゴダールの映画製造のシステムの分析を通して最終的に「わかる」ところまで持って行くと宣言していた。“わからない”という感覚のテクニカルな基礎が主にゴダールの自宅工房(=技法名でもある)ソニマージュにおける映像と音響のリミックスにあることを示唆した後、「非応答」「ファム・ファタール」「問い=拷問」「なぜとなぜなら」といったキーワードに即して様々な作品の一部分をプロジェクターで上映し、リミックスされた映像と音を一瞬一瞬の単位でキャプチャ/分解した上で、それらのバラバラなものの連合が、どのような「映画」になってしまうのかをフローチャート化して明らかにするというもので、見ていて爽快なほど即物的だ。徹底した部分の分析が、しかしマニアックな細部論で終わらず、常に大きなゴダールの全体像に繋がっているため明解さが失われない。平倉氏はギリギリまで「語り得ない何事か」という表現に逃げない(そういう点では、ふいに出た最後の「ものならざる声」という表現に司会の中村大吾氏がダメ出ししていたというのは的確だと思う)。


容赦ないばらし作業が、映画という『止められない』ものを暴力的に引き止め破砕するように見えながら、どこかユーモアを感じさせる。平倉氏のパフォーマンスの高密度な疾走は、当日素材として流された映像にあったリタ・ミツコの曲のような独特のグルーヴすら感じさせた。もちろん、「ダイアグラム的類似」というtxtが、あくまで言葉と貧しい図だけで構成されていたことに比べて、今回の「ゴダール・システム」という講座が、実際に映像を流し音響を鳴り響かせ、その中で平倉氏がライブするという、豊かなリソースを駆使していることは考慮すべきで、このような多彩な技法の投入を、貧しいtxtに圧縮していった時(今回の講座は、平倉氏の博士論文の叩き台だそうだ)、「ダイアグラム的類似」で浮かんだ課題はなんらかの形で復活すると予想されるが、それにしても3時間が長く感じられない、良質の講座だった。


細部が全体に分裂的に配置されることで読み込みを喚起するという構造が、絵画におけるボッティチェルリを想起させること、またゴダール映画に見られるという「問う男:応えない女」という構造がこの講座に再帰し、まさに問う平倉氏に対してファム・ファタールとしてのゴタールというものを立ち上げているのではないか、という感想は当日平倉氏に伝えたのだけど、それにしても、やはりこのような、行ける所まで行ってしまう解題をもってしても、どこかでするりと抜けていってしまう感じがするのがゴダールという人で、それは例えば平倉氏がキーになるファクターとして提示していた、ゴタールにおける恋愛(男女関係)や宗教、政治といったモチーフを、ゴダール本人はまったく信じていないだろうと感じられる点にある(だから、それらはあくまでモチーフであってテーマではないわけだ)。


こういった、どこか正体を掴ませない何事かを平倉氏は恐らく「虚しさ」という言葉で示していたと思うが、そのような虚しさが高齢になってなお年間数本の作品として現れるというのはどうにも異常で、もしかするとその「虚しさと多産」こそ、大きな問題として、この講座を通してあぶり出されてくるのかもしれない。とにかく平倉氏の分析を追えば追う程、そのような「問いを組織させるような問い」こそゴダールが(意図的にしろ無意識的であるにしろ)組み上げているように思えて、なんだか「ちびくろサンボ」で追いあうトラが高速に回転してバター状になったというエピソードも想起された。いずれにせよ、この講座の内容が適切にパッケージされれば、かなりのインパクトをもって流通するのではないか。カプセルされたドラッグのように効果的で、とりあえず僕は翌日早速レンタルビデオ屋で以前見た「気狂いピエロ」を改めて借りて来てしまった。


平倉氏は、映画というシステムを手で分解しながら、それをまた手を使って再構成することで、結果的に様々なメディウムを露にしてゆく。それは映画というメディウムでもあり、言葉というメディウムでもあり、音声というメディウムでもあるだろう。例えば冒頭、平倉氏は「人が文法というものを使って、単語を1つづつ発語して言葉を話さざるをえないのは、人に口が一つしかないからだ。しかし人に口が沢山あったらどうだろう?そのようにゴダールの映画は同時に複数の事が行われている。」といった趣旨のことを言っていた。ここで平倉氏は、言葉というメディウムの特性と、ゴダールにおける映画というメディウムの特性と、人体(人間、ではない)というメディウムの特性に同時に触れている。まるで画家が絵の具を扱うように、平倉氏は映画と、映画を産み出す様々な事物の唯物性を浮かび上がらせる。その手付きは画家というよりは優秀な外科医と言った方が適切かもしれないが、いずれにせよ今はどれも予感の段階であることは留意しておきたい。


●photographers' gallery講座「ゴダール・システム」