絵画にとって手の労働というのは中核的なものとしてある。労働を忌避するいかなる思考も絵画を回避する。そこに思考の軌跡が現れる。労働は、いかなる知的クリシェ教養主義も受付けないし、ただ単に「知的」ではない知性そのもの、「主義」ではない教養(それは無論、美術批評の知識や美術史の手前にある、モノを操作することの教養だ)そのものが露呈する(そしてそれは隠蔽されてはいけない)。ここでの労働は、無為(非効果的)であることでしか、絵画の労働たりえないのではないかという予感がある。それはあくまで即物的なモノの筈だ。プログラマの入力/デバッグ作業に接近するような「労働」、しかも仕様のはっきりしていない(すなわち、どんな出力が行われるか予測できない)ソフトを書くような労働からしか、絵画は開始されないのではないか。絵画を描くことは、一般的な意味でのクリエイティビティとは遠いと思う。通俗的なクリエイティビティとは、要は現在を無自覚に肯定し、そこに対してエフェクトを上げることが目的の、「今の利益」が目指されたもので、こういったものこそ絵画と全く無関係だろう。


労働とは、それがどんなに単純なものであっても(というか単純なものこそ)、必ず分析に基づく。分析とは、対象を分割し、そこからある関係を析出することだ。絵画における対象とは最初に絵画それ自身のことだし、そこを通じて絵画は世界を対象とすることができる。絵画は絵画を分析しながら、それが必ず『世界』に接続されているから、絶対にゼロ地点へ還元されない。そこに現れるビジョンを予測すれば、逆に複雑化する筈なのだ。グリーンバーグ流のモダニスト達、そこにはグリーンバーグに批判的だったミニマルからコンセプチュアルアートまで含まれるが(彼等のような批判者は常に批判する対象と相補的だ)、彼等の決定的なミステイクは、彼等が批判していたつもりのものを、あらかじめ前提にしていたからこそもたらされたもので、このような偽の問題設定から導かれた答えは、偽にしか帰らない。そして、そこへ落ち込まないためにこそ、抽象表現主義以降の展開への批判的再検討が必要なのだ。


分析-労働は単なる対象の分解ではない。必ず再構成を伴う。この再構成にこそ、最も危険なものが潜んでいる。極端に言えば、分解それ自体は大した事では無い。そこで決定的な肯定を導くものこそ労働に必ず含まれる遊び、というものだと思うが、今はそれには触れない。ここでヴェイユを引いてもまったくの誤解しか産まないだろうから、あえて分かりやすいイメージを持ち込むけれど、それは言ってみれば手塚治虫のマンガ「ブラックジャック」におけるピノコの誕生のようなものだと思う(これまた大きな誤解を招くだろうが、イデオロギー的誤解は回避されるだろう)。ピノコは本来双児の片方として生まれて来る筈だったものが、何かしらの要因によって生まれてくることが出来ず、かといって完全に死んでしまうこともなく、一種の原形質のような状態で、生まれる事ができた「姉」の体内に留まっていた。ブラックジャックは、その姉の身体を切り開き、ただ捨てられるしかなかった原形質を切り分けた上で構造を与え、再構成し、そのモノに「ピノコ」という名を与えた。


この「ピノコ」は、生まれる筈だった「妹」とはまったく違う人物だし、ましてや、自らの体内に残り続けたもう一つの可能性としての原形質を排除しようとした「姉」とも違う。形なく溶けていた“何か”は、切り分けられ、再配置され、連結され、そして最終的に名付けられることで、ピノコとして再生する。ピノコはなんら効果的ではない。それは過剰なエネルギーであり、勝手きわまりなく、状況を混乱させ、そしてほとんど何の役にもたたない(料理はケシズミになり、トラブルを引き起こす)。ブラックジャックは、社会に登録されず(戸籍も何もないだろう)、存在をみとめられていないピノコを、一度は社会化しようとするが失敗する。そして一切の登録がない状態のピノコに向って、その登録がない、ということに対する全面的な肯定を頷いた時、そこに、真の意味での「ピノコ」が生まれたのだ。手塚を読んだものなら、誰もがこの感動的なストーリーを語るだろうし、事実感動的なシーンでもある。しかし、そのとき既に、後にピノコとして愛される存在の、グロテスクな姿はもう忘れられている。最も重要なのは、姉の膨れ上がった身体が切り裂かれ、おぞましいぐちゃぐちゃの原形質が露呈された瞬間と、そこに働きかける=手の労働を行使するブラックジャックだ。


ここでブラックジャックが行う一つ一つの手作業は即物的なものだろう。彼は単に正確なだけだ。何に対して正確なのか?このぐちゃぐちゃが、すなわち肯定されるべきもの、「ピノコ(と名指されるようになるもの)たりうる」、という認識に対して正確なのだ。ブラックジャックは正確に労働する。それはクライアントの希望に沿うものでもなければ、何かの役に立つと思っているわけでもない。単に捨てられようとしている無駄な物に、ある労働を加えれば、そこに何事かが発生する筈だ、という確信が、対象を切り、開き、分別し、関係を繋げさせる。そして名付けさせる。「どう動作するかわからないが、とにかく動作する(してしまう)」何事か。ブラックジャックの、切り続け開き続け分別し続け構成しつづける、手の労働、その労働だけが、不定形な原形質に触れ、その不定形さを内包したまま、それはただピノコである、というだけの存在となった。このとき、ブラックジャックは外科手術を通して『世界』に触れていた。以後も、余人はともかくブラックジャックだけは、ピノコのイメージに「ぐちゃぐちゃ」を重ね合わせて見ているだろう(というか、ブラックジャックは常に人をそのように見る)。そしてそのようなピノコは肯定的でありうるだろう。絵画もまたそのようなものの筈だ。絵画の労働は、具体的なオペレーション(手仕事)を通過して違う場所に到着するだろう。そのオペレーションが「労働」になる時、ある理念を必要とするだろうが、その理念はあくまで手仕事自体に内在するのではないか。