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絵の形式と内容というのはそう簡単に分別できない。それを分けているのは概念、というより言葉なのであって、絵そのものを「形式」とか「内容」とかに分けてしまうことはできない。ちょっと考えてみれば当たり前のことで、例えば僕と言う人間を「人体」とか「誰と誰の友人」とかいうものと「永瀬恭一としての内実」とかにわけることができないのと同じだ。僕は常に様々な属性や社会関係の中にありながら固有の身体や条件や能力、あるいは諸知覚の集合として存在し、それらは相互に関係しあって分けることはできない。僕はある関係と目的の下では一定の出力ができても、別の環境で別の目的が目指されているところでは、まったく動作しない。しかし、そういう事とは無関係に、僕が100メートルを何秒で走れるかという能力は同じだし、知ってる語彙や知識の総量も変らない。僕と言う個人を文脈や関係性といったものだけで説明することも、それとは無関係なものだけで記述することもできない。
同時に、人はおうおうにして事物を「形式」と「内容」に切り分けて処理している。例えば僕が誰かと話している時、大雑把にいってその人は僕の話す内容や表情や身ぶりを読み取り、様々な誤読も含めて僕の出力そのもの(内実)を受取っていると言っていい事もあるが、しかし別の場面では例え面と向って会話していても、ある関係性や社会性の中に位置付けられる僕という人間の形式だけが受取られていて、僕のその場での出力も全てそのファクターの一部としてしか捉えられない、という事もある。ある絵を“良い絵だな”と思って見ている時、多くの場面では形式を意識の中でカッコに入れて、絵の「内実」に対して“良い絵だな”と思っているかもしれないが、しかしそれは別の場面では『美術館に置かれた油絵』という形式や文脈を見ている、という時もある。このような例も、大抵同時に起きているに決まっているが、そうは言ってもどのレベルに「重心」が置かれているか、という認識の片寄りは、やはり排除することはできない。
一般に近代的な条件を踏まえた絵、たとえば壁面に平均的な成人の身体の視線の高さの幅の中にかけられ、平滑な基底材に描かれた絵画は、まずもって「内実」を見られることになる。もちろんそこには「美術館」「ギャラリー」といった制度があり、ホワイトキューブという空間があって木枠や画布、絵の具といったシステムがあるわけだが、そういったものはひとまず置いておかれて、その絵のつくり出すイメージや観客に働きかける感覚が、快/不快という区別、あるいは美/醜という区別に選り分けられ、いつかそれが「良い/悪い」という判断に繋がる。逆に、そういった条件を重点的に思考する絵画もある。わざとホワイトキューブに置かれない絵画、平滑ではない基底材に描かれた絵画、あるいは基底材だけを取り出しオブジェクト化した絵画、といったものは20世紀を通じてくり返して製作されてきたし、それはある運動にもなってきた。つきつめられればそれは絵画でもなくなり、反復するオブジェクトや、実体のないインストラクションにもなったわけだ。
だが、そのような区別に基づく純化/還元は、あくまで「処理」に関わること、煎じ詰めれば「言葉」に属することであって、絵画が必然的に分別されなければいけないわけではない。こういう言い方をすると、すぐに「絵とはコンテキストやコンセプトに還元できない、語り得ないものなのであって、あくまで内実に沈滞すべきだ」と言っているように見えるかもしれないが、そうではない。僕は、形式と内容が、絵画においては“個々の作品の中で、平行して一緒に認識され製作されなければならない”と言いたいのだ。くり返すが、これはけして分析以前、形式も内容も渾然一体となった前近代(しかし、そのような「前近代」とはいつ、どこのことか?)に戻れという事では無いし、絵画とはあくまで知覚を通じた主体の現れなのだなんていう事でも、絵画は今や近代を超えて完全に蒸発した、という事でもない。何度でも言うが、絵画を通じて現れる問題は、どれか一つのものに還元されてはいけない筈なのだ。
こういう事に本当に意識的に取り組んだ画家というのは、僕の知る範囲ではまずピカソで、「アビニョンの娘たち」とかにその感覚を予感する(なにしろ僕は実作を見た事がないので予感するしかない)。ほとんどなんにでも手をつけたピカソは、陶器や彫刻や版画まで含めて、全て絵画の問題として捉えていた筈だし、それこそ彼は「全てを一緒に」製作する必要があって、だからこそあのように目まぐるしく−陶器や版画や絵画の仕事の「つなぎ目」が消え去るかのように−連続して製作し続ける必要があったのではないか。要は、こういう場面では、絵画の「形式」が問われるとか、「内実」が問われるとかいう二項対立が原則的に機能しないはずなのだ。全てが有機的に結びついた統一体などに戻れないが、かといって形式だけを取り上げて組み合わせていても退屈だし(というかそんな試みは全て出尽くしている)、それらを全部棚上げして「良い絵」というものにひたすら潜り込んでいくこともできない。