現在、日本の美術で「穴」になっているものがあって、それはアメリカに対する正面切った思考だと思う。正確に言えば、アメリカへの視線がナショナルな日本主義に折り返されてしまい(つまり表面上はアメリカが希薄になっており)、それがそのままマーケットでの「売り=流通」になってボリュームゾーンを形成している。これに対抗しているのはヨーロッパ的教養に基づいた思考で、ここでは結果的に少数であることとパラレルに「流通しない」ことが価値とならざるをえず、内部で形式的な議論がされている。雑駁に言えば経済に“繋がりたい”多数派がナショナル日本というオリエンタリズムでビジネス展開をしており、それに対するアンチ、経済に“繋がりたく無い”少数派がアメリカを無視した上でヨーロッパ指向を打ち出し、市場主義に対するゲリラ戦を戦っている。


日本対ヨーロッパ、という風景には現れていないにも関わらず、アメリカはその底で基本的な構造を規定している。その構造とは、エンジニアリングやテクノロジー、通貨、金融といったインフラだけでなく、ほとんどあらゆる全てを駆動している欲望、というものだと思う。美術において、率直にアメリカを対象化し、アメリカと自分の場の関係を計りながら、批判的にモダンのオルタナティブというものを展開していこうとする、多数派でも少数派でもない「個人」あるいは「作品」は少なく、ほとんど忘れられた領域になっているように見える。それはむしろ、忘却というよりは抑圧だとしか思えないのだけど、もしかするとこれは日本だけの話しではなく、アメリカ自身を含んだ世界的な状況なのかもしれない(すなわち、アメリカですら無根拠故に徹底的に強化されたナショナルなものへの耽溺か、ヨーロッパ的なものへの傾倒だけが相互に無関係に存在していて、オルタナティブとしての理念的アメリカ、というものを思考している人は少ないのかもしれない)。だが、とりあえずは領域を日本国内に限定しておこう。


絵画でもインスタレーションでもビデオアートでもなんでもいいが、そこに現れる「ナショナル」なものは、時としてアイロニーを纏っている。だが、現在アイロニーはなりたたない。突っ込んで言えば、そこで纏われるアイロニーはほぼアリバイのためのもののように見えるのだ。いずれにせよ、「ナショナル」な装いは「効果的でありたい」=反応のあるものでありたい=繋がっていたいという感情に基づいた共同体主義を形成する。このような「効果的でありたい」=反応のあるものでありたい=繋がっていたいという感情は、もちろんアイロニー抜きの、直接的なナショナルに連結される。更に、この感情は経済の運動とまったく一体化している。


経済は全てを計量可能、応答可能にし、全てを連結し全てを価値にする。すなわち全てを一つの「欲望」に接続する。経済が、例えば個々のローカルな文脈や履歴から個物を引き離すことをもって「ナショナルなものと対立する」と把握するのは間違っている。経済は、確かに個物から履歴を奪うが、それはより巨大な履歴に連結するための行為で、一度具体的な履歴から引き離された個物は、すぐさま仮構された、欲望としての履歴に登録される。そもそもナショナルなものとは再帰的ナショナルであって、最初から履歴そのものではなく履歴のシュミラクルだ。個々のローカルな履歴など一度経済の手にかかれば蒸発してしまい、結果仮構された履歴が付帯される。このような、仮構された履歴、幻の履歴、故に巨大になりうる履歴こそ「ナショナル」であって、ここで経済はその運動に伴ってナショナルなものを増大させる(その代りに、真の履歴や紐帯は破壊される)。


だから、今美術の分野でナショナルな効果を利用しているものは、全て経済の一部(になりたいもの達)だと言って間違いがない。だから今美術の分野で経済を推進するものは、全てナショナルな効果の強化に貢献していると言って間違いがない。ナショナルは全てを経済の名の元に連結し、経済の名の元に交換可能にする。だから効果的でありたい=繋がっていたいという感情は、必ずナショナルなものと経済に自動的に連結されると言って間違いがない。逆も真だ。ナショナルなもの、あるいは経済に基づくものは、必ず効果的でありたい=繋がっていたいという感情に覆われる。こういったナショナル-経済-共同体主義の中心にあるのは欲望だ(欲望のトリニティ)。アメリカとは仮構された履歴(歴史)故に繋がっていたい(効果的でありたい)という感情を強化した、共同体主義の合衆国であり、まさにその事が歴史上比肩するもののない圧倒的な経済として現象している存在だから、今、ナショナルな装いをしているものは、純然たるアメリカへの従属(=経済への従属/=感情への従属)をその背後に抱える(これは美術の領域の話しだけではない)。


欲望のトリニティに対抗しようとする人々は、その多くがヨーロッパに向う。しかし、少なくとも日本においてはそれは形而上学にしかなりえない。そのようなことは、もろに欲望のトリニティの純粋形態となっているアメリカに取り組めば明らかになってしまうはずだが(それを避けるかのように?)彼等はアメリカを相手にしない。すなわち、アメリカとは単純であり、馬鹿であり、問題とするに値しないから、ヨーロッパにだけ存在する美術史を考えていればいいと言う。上述のとおり、それは形而上学だから、ほとんど完全に「現実」に触れないが、彼等は「だからこそ価値がある(知的である)」と言う。僕は欲望のトリニティに従属する者の性質として「効果的でありたいという感情」を上げたが、彼等は、この事と、「現実に触れない」ことを混同している。欲望のトリニティに対するエフェクトを追求することと、そのような世界に外部がない以上、その条件から思考を開始せざるをえない、ということは別だ。


欲望のトリニティに対する拒否をしようとすると(それは時に自己の深層で抑圧している願望に触れてしまうのではないかという恐怖に見える)、多くの人が自らの思考の条件すらカッコに括って棚上げしてしまい、知的ゲームを洗練させはじめる。そこでは知的ゲームの勝利が経済ゲームの勝利に代替されてしまう。もちろん、そんなことをしても欲望のトリニティの純粋形態としてのアメリカを消去する事はできないし『消費者』を拒否することもできない。こういった場合の知的ゲームの「主題」はたしかにヨーロッパだが、その「手法」、すなわち手付きは全面的にアメリカに依存している。言説におけるフォーマリズムでもいい。絵画制作のテクニックでもいい。映画/映像などにおけるテクノロジーでもいい。そこから「主題(モチーフ)」を取り去り現れた手法を見れば、彼等がアメリカに深く依存しているかが明白になる。


現実から開始しながら、現実に飲み込まれず、かつ現実を棚上げしないこと。絵画は絵画の問題に内在するが、だからこそ現実に触れる。例えばミニマリズムに現れた反復(無限)の問題は、本当に「問題とするに値しない」のか。例えば知的「判断」が「趣味」でないという保証はどこにあるのか。日本のかわりに、あるいはヨーロッパの代りにアメリカ、と言っているのではない。そもそも、そのような問題構成を産み出す構造を「アメリカ」と呼ぶのだとしたら、日本を経由しようとヨーロッパを経由しようと、最終的にアメリカは回避できない、そんな予感がする。