国立西洋美術館での「イタリア・ルネサンスの版画」展に行った。レオナルドの展示のついでだ。保存状態を含めた作品の品質にずいぶんとバラツキがあるが、美術展というよりは「ルネサンス美術を広めたニュー・メディア」というキャッチコピーからもよみとれる通り、ルネサンス期の絵画・図像表現の傾向を伝播させるコミュニケーションツールとしての版画、一種の博物資料展というコンセプトなのだろう。そういう意味では、マニアックであっても楽しめる。500年後にまだ人間だのミュージアムだのが生き残っていたとして、「旧インターネット時代にはblogというものがあった」みたいな見せ物があったとしたら、世界遺産指定でもされたgoogleサーバや「はてな」ログを、やっぱりマニアックな人がちらほら見にくるかもしれない。そういうノリだ。正直、相当な通でないとぽかーんとなるに決まっている企画で、レオナルド展の流れで来る客を小判鮫のようにキャッチするにしても、もう少し粒をそろえて欲しかったと思うけど、もともと版画をやっていた人間としてはついつい無視できなかった。


作品としてはやっぱりデューラーが圧倒的で、タブローにおけるルネサンスでは北方とイタリアは相互に影響しあいながらも別系統の進化を展開させていく(アルパース-マーティン・ジェイ流にいえば、いわば観察による経験視覚を重視するベーコン/ホイヘンス的北方絵画と、デカルト的抽象幾何学視覚を重視する南方イタリア絵画、ということになるだろう)わけだが、こと版画に関してはデューラーの圧勝に見える。図像表現に関してはデューラーもがんがんイタリア絵画の動向を輸入しているのだけど、いかんせん一本一本の線の冴えや完成度が同時代のイタリア版画とは段違いに見える。これはもう、版画というものを単なる印刷物として見ているか、独立した美術作品として見ているかの意識の差で、はっきり自分の名前を版画にサインするデューラーは、たぶん当時の状況から見たら変わり者なのではないか。ただのweb日記ツールと見られているblogで、その特質を生かしながらなおかつ本気の文学を展開させている人がいるようなものだ。


ポッライウオーロは画家として随分版画を手掛けているが、時代的に画家と工芸家の分別がはっきりしていなかったということになるかもしれない。いずれにせよ、今回見られるポッライウオーロの版画は彼のタブローと比べてあまり良く無い。ただ、その解剖学的人体表現の追求が、不自然な程徹底されているのは面白い。絵画とも、例えばフィレンツェにあるポッライウオーロの「ヘラクレスヒュドラ」でのヘラクレスの表現とはっきり重なる。イタリア版画が独自の美術的水準を確保するのは、エッチングが開発され普及してからのことで、要するに極めて職人的技術が前提とされるエングレービング+ドライポイント(直刻技法)に比べて、即興的かつ簡易な製版が可能なエッチングでは、画家が下絵を書き職人が版画化する、あるいは画家の絵を職人がコピーするというのではなく、画家自身が直接版画制作をするようになるわけだ。パルミジャニーノといえばマニエリスムの代表的画家だが、エッチングは白が生きた感じのものでケレンみがなく、彼の油彩と比べてもすっきり見える。


デューラーはくりかえしイタリアに来て絵画を吸収し北方に持ち帰り、イタリア・南方はデューラーから北方の絵画のエッセンスや技法を学ぶ。またそれぞれの地域内でも版画を通じてお互いの動向を知り、コピーし、改編し、改編されたものが逆伝播する。南北だけでなく様々な国に版画を通じてルネサンス絵画が伝播しコピーされる。要するに当時の版画とその流通はblogのトラックバックであり、コピペであり、ソーシャルブックマークであり、コメント欄炎上(デューラーが、自作が本当にそのまま丸写しされ販売されたことに対し訴訟を起している)ですらあったわけだ。そこで行われていたのは遠近法や短縮法を含めたルネサンス絵画全般のオープンソースに近い。版画・印刷物のネットワークが15世紀から16世紀のヨーロッパにイノベーション革命を引き起こす。ポッライウオーロ以前のルネサンス1.0はデューラー等によってルネサンス2.0へ進み、更にはエッチングという新技術の衝撃を経てパルミジャニーノに見られるルネサンス3.0とバージョンアップをくり返した。優秀なエンジニアが版画というメディアを更新し続け、そしてその中で、突出したビジョンをもちエンジニアからアーティストになった人々が出現し、版画自身がコミュニケーションツールから、より自立した芸術へとステップアップした、という言い方も可能だろう。


誤解を防ぐために書くが、もちろんこれは例え話であって、今のネットワーク技術がいつかアートになるという話しではない。あくまで今アートとして扱われる版画が、かつてメディアであったというだけの話しだ。力をもったメディアが常にアートになりうるかと言えば、そんなことは全くない。かつて蓮實重彦ICC主催のインタラクティブアートのシンポジウムにおいて、新しいテクノロジー謳歌しているアーティスト達に向って彼等を「誕生期の楽天性」の中にいると揶揄した。今のITは、そのような状況を一通りとおり過ぎたと僕は感じるけれど、通り過ぎたところで何か圧倒的なブレークスルーが見えて来たというイメージはない。ただひたすらな技術の前進が、どこか閉鎖的で自己愛的な幻想の強化に向っている感触もある。この展覧会から、あえてインターネットの状況を見てみるならば、それはアートへの可能性どころか、そもそもメディアやコミュニケーションツールとしてすら成り立っておらず、細分化された敵/味方の分別ゲームの遊戯場としてグロテスクに賑わっているだけで、そこで見られる「前進」や「進歩」は、逆にほとんど幼児化への退行かもしれないという疑惑がある。あたりまえだがこのような言い方はこのblogを外して言っているわけではない。


●イタリア・ルネサンスの版画 ―チューリヒ工科大学版画素描館の所蔵作品による