ゴールデンウィーク中は数日殻々工房にいて、何冊か持ち込んだ本を読んでいたのだけど、一番面白かったのは会場に置いてあった宇佐美圭司展のカタログだった。この展覧会は1992年に池袋セゾン美術館で行われていて、僕も見ている。華々しい印象のあったこの展覧会以降、宇佐美圭司という名前はある種の棚上げをされている気がする。そして、その棚上げを行ったのは、宇佐美圭司から大きな影響を受けていた岡崎乾二郎という人なのだろう。正確に言えば、1995年に出た「モダニズムのハードコア」という書物によって、宇佐美圭司という名前は棚上げされたのではないか。


宇佐美氏の絵画は初期のアンフォルメの影響を受けた、うねるような画面から、1960年代初頭にかけて急速にタッチが細かくなり、筆跡が整然と並ぶ、秩序が導入されたオールオーバーな様相を呈する。読売アンデパンダンとその後のネオ・ダダがメディアを賑わせていたであろう頃、まったくそれらと無関係に、ごく短期間に集中してアメリ抽象絵画の歴史を制作を通じて−つまり単なる美術史の勉強というレベルではない実作で反復し、通過している。やがてその画面はホワイトアウトし始め、ほとんどミニマルに近付いていく。この間の仕事が、とても充実して見える。なにしろ宇佐美氏は、19才から20代初めという季節に、かなりの枚数の作品を制作しており(「保存しきれず悪環境でダメにした作品も多い」という記述もある)、そこでモダニズム絵画(抽象表現主義)の問題点を洗い出している。


大受験を「急がなければならない」という判断から止めてしまい、ただちに独学を開始して、しかも数年で抽象表現主義のデッド・ポイント近辺まで自作を詰めていっているのは、当時の国内の状況を考えると驚く。しかもその重要性を、多分この青年は自覚していた。そうでなければ、あのような意識的な作品の保存はありえない。宇佐美圭司という画家は、単純な知見として抽象表現美術の臨界点を図示したわけではない。いわば、モダニズム絵画の論理を内在的に展開し、その帰結として絵画の死を自ら死んでみせたわけで、東野芳明氏、あるいは志水楠男氏という人々が注目したのも必然なのだろう。


宇佐美氏は、抽象表現主義リテラルな徹底による単一-還元化という問題点を把握した後、反美的ダイアグラム絵画を展開させ始め、複数の項の諸関係という思考を追っていく。もちろん、そこには例えば荒川修作からのリファレンスがある。ペインタリーなタッチの放逐、ダイアグラムと文字の導入などがその例だが、しかし、それが20代初期の絵画作品と同じく、単なる表面的なものではない内的論理性をともなったものであったことは、荒川から独立して作品を展開させていっていることからわかる。「ゴースト・プラン プロセス1-4」と題された作品(26のポイントの相互関係のダイアグラムを立体パズルにし、ゲーム規則にのっとって展開させ再構成する)などは、ほとんど荒川の仕事を別の次元で先行しているようにも見える。レーザーによるインスタレーションも含め、明らかに絵画というものを、その外部との関係性において考えていて、この時期の作品が僕には最も面白く見える。宇佐美氏がクールなのは、例えばロスアンゼルス暴動の報道写真から人の輪郭線を抽出しながら、それをいかなる社会的次元と結び付けることなく、あくまで線の複雑さの素材としてのみ利用していることだ。


ところが、ある段階を機に、宇佐美氏の絵画は形式的展開を止めて、絵画的なるものに回帰する。そのメルマークははっきりしている。1979年から1980年にかけて制作された「100枚のドローイング」にみられる、水彩絵の具の色彩や滲み、ペンのタッチやストロークが、宇佐美氏を絵画の内部に引き戻したのだろう。というよりは、もともとペインタリーな資質を持っていた宇佐美氏が、「初心に」戻った結果ということになるのだろうか(やはりカタログ中に「初心に戻るつもりで描いた」という言葉があった)。以降制作されてゆく宇佐美氏の絵画は、図像的な複雑さとペインタリーな絵の具の扱いを、非常にグラフィカルに視覚的エフェクトとして利用し、おもいきりシアトリカルになる。1992年の展覧会でも、最初の部屋ではそのようなシアトリカルな大作絵画で観客を驚かせ、その後に「それまでに至る道のり」を逆行的に見せるものだったと記憶している。このような宇佐美氏の状況をカタログの中ではっきり批判しているのが岡崎乾二郎氏で、要は絵画というものを自明とせず、制作の事後性、あるいは集合論という理論的核にみられる関係性において絵画を考えていたから宇佐美圭司は価値があったのであって、それが今や単一の「世界」や「宇宙」を表象してしまう(集合というのは常に複数性を要求するのであり、「宇宙」のような全体的単一性とは相容れない)イルミネーション=装飾になっている、というものだ。


よく宇佐美圭司氏もこれをカタログに載せることを承諾したなという手厳しいテキストで、その「〜なんじゃないですか」という語尾は、真直ぐ宇佐美氏本人を糾弾しているようにしか読めない。しかし、同時にこのテキストは、岡崎氏の基礎的な部分において宇佐美圭司という画家が、とても重要な存在であることも示している。ものすごく単純化して言ってしまえば、岡崎氏はまさに絵画を単一の体系として捕らえることを避け、関係性において思考している作家だろう。即物的に言えばキャンバスに「台」をつけ(木枠の2重化)、絵の具をメディウムなどによって樹脂として半立体的に扱い、絵画を1枚の平面に押し込めず、2枚あるいは複数の作品の重ね合わさりとズレ、あるいは2次元ではない2.5次元とか2.3次元という(彫刻と絵画の)“間”にある存在として表している作家だ。この宇佐美圭司批判に含まれる、宇佐美圭司の「可能性の中心」を事実上引き継ぎ再展開しているのが岡崎氏だとも言える。岡崎氏の批評活動についても、宇佐美氏からの影響関係を見ることは自然だろう。


そこからうがった見方をして、例えばかつてのカナダ大使館における岡崎氏のドローイング展が、その絵画性への強化の身ぶりにおいて宇佐美氏の「100枚のドローイング」を意識したものだと言ってもそんなに見当違いでもないだろうし、その後も岡崎氏が慎重に「絵画」に内属しないよう制作を続けているのも、宇佐美氏を反面教師にしているのだ、と言うことも可能だろう。とにかく、アメリカの抽象表現主義の検討から出発し、その限界を検証しながら絵画を、批評的に捉え直していた宇佐美圭司氏が「イルミネーション」になったという宣言から3年後、岡崎氏は「モダニズムのハードコア」を共同編集者として出版し、そこから連載が始まった「経験の条件」において、いわば批評の場において宇佐美圭司氏を棚上げしたわけだ。この棚上げは、多分とても大きな影響力を発揮したのではないか。僕が知る限り、このカタログが出た1992年以降、都心で宇佐美圭司氏のまとまった展示が行われたのは、三鷹市民ギャラリーでのものくらいだ。


ある時期以降の宇佐美圭司氏の作品が「イルミネーション」だったとして、しかし今改めて思うのは、それでも日本の美術の中で、宇佐美圭司という名前が忘却されてしまうとすれば、それはやや不当なのではないかということだ。僕が学生だった頃、日本の同時代の画家の書いた、多少なりともまともな本といえば、宇佐美圭司氏の出していた本、「絵画論」とか「絵画の方法」とかくらいしかなかった。流れや事情みたいなものとは切り離して、作品を冷静に批判・検討することが必要なのではないか。宇佐美圭司-荒川修作-岡崎乾二郎展、とかあったら面白いと思うが、まぁダメなんだろうな。