シュウゴアーツで中平卓馬氏の写真展を見て来た。個々の写真はそれぞれ「強い」という感覚があるのだが、しかしそれがどうにも捕らえ所がない強さで、変な感じだ。断然素晴らしい、と留保なしで断定もできず、かといってさっぱりつまらない、わからない、と言うこともできない。実はこの展覧会を見たのはかなり前だったのだが、いかんせん明解にtxtを書くことができなかった。こういった困る作品の判断においては、容易に作家の人物像、巷間よく聞かれる中平卓馬伝説のようなものを召還してしまいそうになるが、それは危険だろう。


今回の展示で見られた写真が与える「強い」という印象は、鮮やかな色彩と明暗のコントラスト、対象への距離の感覚によって形成されている。具体的に言えば、空の青や植物の緑といった、主に彩度の高く、比較的明度の低い色彩が光沢のあるプリントにぴたりと定着されなおかつパネル張りされており(実際には、会場入り口にプロジェクターによる映写と会場カウンター奥の壁及び別室に簡易なピン止めの作品もあるが、あくまでパネル張りされた写真がメインだろう。)、その高い光の反射率が観客に強く働きかける。また、中間的なトーンが少なく、はっきりとした明暗の落差が、対象をくっきりと写しこみ、ほぼブレやぼやけのない明解な画面を形成する。ピントがけして厳密ではないとしても、少なくとも初期の中平氏の写真のような大幅なブレ・ボケは存在しない。モティーフは人、動物、植物、こま犬などだが、いずれも画面内に大きく写り、画面に謎のようなものは存在しない。


にもかかわらず捕らえ所がない、と思わせられるのは、その構図と展示の形式、すなわち縦長のパネルが2枚ひと組で一見無関係な内容の写真が併置される事による。微妙に中央に安定的に納まらない対象が、縦長というフレームのもつ求心性と齟齬を起す。猫はしっぽがすこしだけフレームからはみだしており、こま犬もやや傾いて写る。野外で眠る人々は斜に頭を下に写る。多くの写真で傾きや見切れがある。このような、ある種の座り心地の悪いイメージは、更に2枚ひと組とされることで、なんらかの意味を持ちそうに見えながら、しかしその意味は不明確でしかない。かといって完全になんの意味も持たないかと思えば、やはりなんらかの意味がそこに立上がっているように思えてくる。要するに、強いコントラストで明瞭なイメージの向う方向が行き場を失い、どんなストーリー、例えば「この写真にストーリーはない」というストーリーすら形成されない(されそうになる手前で踏み止まる)ような感覚があるのが中平卓馬氏の写真だ。


注意しなければいけないのは、例えばここで「意味を剥ぎ取られたモノそれ自体」とか、「写真のもつイメージ形成機能を壊すような写真」という言い方をすると、恐らく間違えてしまうということだ。中平氏の写真がもたらす「何か強い印象があるが、“良い”とか“悪い”といった価値判断が上手くできない」という在り方は、まさにそのような「〜という写真」という“価値”を持つこと、言ってみれば写真の位置を確定することを避けていくようなものなのではないか。中平氏の写真において、良い写真/悪い写真、といった位置、あるいは意味のある写真/意味のない写真、といった価値が見い出されるものは排除されるか、2枚ひと組という提示形式でずらされる。2枚ひと組、という形式は、「物語りなどない」という物語りに辿り着かないためにこそ要請されているように感じる。だからこそ、その組み合わせは決定的なものではなく展示のたびにかえられるだろうし、あるとき選ばれなかった作品があるとき選ばれ組み合わされることもあるだろう。物語りを最初から否定するのではなく、物語りが形成される前に、そのベクトルをそらし行き場を失わさせること、そのような効果が目指されているように思える。


まかり間違って無垢などという単語を中平氏の写真に向って張りつけてしまう者こそ、もっとも安易だろう。そのような“居場所”がないのが中平氏の写真から受ける感覚だ。中平氏はむしろ戦略的とも言える写真家だと思うし、その立ち居振る舞い(なにしろ僕が行った時にも、本人がずっと自分の作品を見ていたのだ。まるで会場にいないことなどなかったのようだ)も含めて、隙のない体系を持っているように思える(というよりも、その隙のなさこそが異様なのではないか)。さらに興味深いのは、そのような中平氏の(体系の)隙のなさが、強さというより繊細さに基づいているように思えることだ。上述のように、2枚ひと組の展示は強い物語を提示するのでもなく、強い物語の否定を提示するのでもない。物語りをつくり出すようでいて上手く作られない、という、一種の抵抗としてある。また、その縦長の構図は視覚を中心に集めようとしながら、しかし2枚並列されることで固定されず、2枚の間で往還される。1枚の縦長の構図で視線を集中させることも、横長の作品で広がりをもつのでもなく、「集中をしかし拡散させる」という手法も、同様の抵抗のそぶりのように見える。むしろ繊細さが、逆説的に色彩やコントラストの強さを要請している。


平氏の写真において、撮影それ自体よりも、膨大に撮影されたものの選択、そしてその組み合わせの判断が重要であることは想像するにやすい。「たった1回の誕生」だけで全てが確定されてしまうのではなく、選択/組み合わせという第二、第三の産まれ直しを経ることで、「1度で全てが決まる」ことが回避される。写真たちは膨大に撮られ、膨大に選択され、膨大に組み合わされることで、膨大に生き直し産まれ直す。そういった、いわば繊細さの強さの基底を支えているのは、恐らく中平氏の、光りへの強い希求にあると思える。中平氏の写真は、その構図や形式においては強力な(異様な)体系が機能しているが、しかし、その「光り」への欲望は、ほとんど迂回がなく定着されている。中平氏の写真には、中平氏の「好きな光」があられもなく写りこんでいるように思えて、その部分だけが、作品の形式といったものからはほとんど浮かび上がって見えてくる。


写真は光りがなければ成り立たないが、写真は常に光りそのものではなく、何かについての光りしか捕らえることができない。中平氏の写真は、写真というよりは、世界の様々な事物についての光りを収集する行為のようにも思える。だから、そこに写真として個別の作品が「良い/悪い」といったことを持ち込んでも意味がないだろう(もしそういう判断を持ち込んだとしたら、中平氏の写真の多くは、かならずしも良い写真作品ばかりではないと言わざるをえないだろう)。ここで見ることができるのは、世界(の光り)についての記録であり、世界(の光り)についての徴候だ。