カルロス・ソリン監督のアルゼンチン映画「ボンボン」が意外と面白かった。この映画は、いわゆる動物ものというか、ゆるいほのぼの映画として宣伝されているし、まぁマネジメントとしては妥当なのかもしれないが、内容は実はシリアスだし形式的にも興味深い面をもっている。以下、ネタばれするので注意。


ストーリー的には他愛もない。アルゼンチン・パタゴニアが舞台なのだが、職を失い娘の家に身を寄せている主人公は、不運な日々の中で一頭の犬を飼うことになる。この犬がドックショーに出られる資質を持った犬で、訓練の後コンテストで勝つことができるようになる。ところが種つけビジネスをしようとするとこの犬が不能で、またもや主人公は失意に襲われる。預けた犬が逃走したのを聞いて、探しに行った主人公が見たのは…という、単純きわまりないものだ。ドラマティックな展開も派手なシーンも少なく、ただただ、今一つ上手くいかないことと、わずかないいことの間を、主人公の曖昧な表情が行ったり来たりするだけの映画で、エンドロールが出た時は「そこで終わりかよ」と思わず突っ込みそうになる。


この映画は、その主題においては、南米の貧しさを描いている。そして、その貧しさは、はっきりとアメリカの石油産業によっている(南米の石油へのアメリカの関与は、ベネゼエラのチャベス大統領就任の状況などから明らかだろう)。開巻直後、パタゴニアの油田で働く労働者に自作のナイフを売ろうとする主人公が描かれるが、手作りのナイフは労働者たちに評価されるものの「ブラジル製の方が安い」という理由で1本も売れない。帰宅中に寄ったガソリンスタンドでは、主人公はここで20年働いたのち解雇されたことが明かされる。貧しさは主人公だけのものではない。過去の同僚がいるスタンドもいつ閉鎖されるか分からず、油田で働く人々が主人公のナイフを誉めながらも買えないのは、彼等にも余裕がないからだ。警官に尋問され賄賂に手製のナイフを差し出さざるをえない主人公の車の背後に写る巨大な石油採掘機は、そういった素朴な労働を否定するものの象徴であることは明瞭だ。


言ってみれば、この映画はアメリカ石油経済の下で生活しているパタゴニア人の「再就職映画」というか「起業・独立映画」だ。油田で働く人々にものを売るのにも、ガソリンスタンドで雇われるのにも失敗した主人公が、そんな困難の中でも失わない、というよりは“失えない”弱さや曖昧さ、どこか受動的に幸運を待つだけの、耐えることだけに慣れてしまった生活の中で、その因果の連鎖故に手にした犬が、「金になる」可能性を持っている。そこから、主人公は石油マネーではなく、この自分の運命故に手にした犬によって職を得る、すなわち独立することを目指してゆく。


「ほのぼの犬映画」と売り出されながら、どこか奇妙な感覚が残るのは、この主人公の、どこか即物的な犬への接しかたが有るからだ。行き場所がなくやっかいものだった犬に自分を投影しながら(つまり愛情はそれなりにありながら)、しかし基本はあくまで職を得る手段=経済動物としての犬を見ているのが主人公で、この犬と主人公の間にはべたべたした所がない。この主人公が犬をドック・ショーで勝てるようにするために訓練するシーンがあるのだが、ここでの訓練こそ、犬よりもまず主人公が「独立」するための訓練となっていて、けしてこの映画は単なる幸運の連鎖によるハッピーエンドの寓話ではない。それなりの意志と技術による、リアルな自立の映画となっている。


この映画は、「ゆるさ」の中に意識的にサスペンスの形式を入れ込んでいる。中盤からすこしづつ暴力の存在を暗示してゆき、終盤のオチに向けた構造を作り込む。ふいに主人公に噛み付く犬、闘犬のはみ出た内蔵を写した写真、といったショットが盛り上がりのない流れの中にぽつりぽつりと挿入され、終盤に逃げた犬が向った先の、パタゴニア先住民の人々の集落では犬を殺しているという噂が囁かれる。そこでの、連なる壁のように積まれたレンガは、一歩づつ進むカメラに先が見えない緊張感を与え、聞こえる犬の悲鳴で緊張感を高める。オチが見えてしまえばどうということのない仕掛けなわけだが、パタゴニア高原を貫く道路、そこを走る車のがたごととした走りが美しく捉えられ、ロードムービー(もちろん車が旅をすることと、主人公が石油から離れた仕事を獲得する道のりが重ねられているわけだ)でもある(まったく似ていないにも関わらずジョナサン・デミサムシング・ワイルドを思い出した)。要するに、いくつかの形式が重ねられているのが「ボンボン」という映画だ。


さらに、この映画のキャストがほぼ全員素人であり、しかも皆本名がそのまま役名になっている(主人公は駐車場で働いている人だそうだ)と知ると、この映画は俄然「ドキュメンタリー」としての様相を示し始める。もちろん、単に素人が本名で出ていればドキュメンタリーになるわけではない。この映画は時にあからさまな「御都合主義」を見せるし、演出も簡単なものだったりする。しかし、森達也氏が言うとおり「ドキュメンタリーは嘘をつく」わけだし、いわば嘘の付き方、虚構の立て方にこそリアルがあらわれる。「ボンボン」は基本的にファンタジーであることは間違い無いが、この映画が伝えようとした「虚構の中のリアル」は、パタゴニアの酷薄な状況を、ウイルスのように「動物映画」を見に来た日本の観客に侵入させるだろう。その酷薄さは、たとえば同情されるべき主人公も、更に厳しい状況にいる人々=パタゴニア先住民の人々には差別意識を持っていることにも現れているし、不能の犬が、いわば「野生」を象徴させられている先住民の人々の集落へ向うという、この映画の構造自体にも見てとれる。


誰もが見るべき傑作だとは言うつもりもないのだけど、ゴールデンウィークの娯楽として「かわいい犬映画」を見に来た人に、声高な主張ではなくファンタジーの衣装に包んで「南」の状況を見せているという意味では上質な悪意を含んだ作品だったし、単に微妙な評価のヒューマンドラマとしてだけ消費されてしまうのも勿体無い映画だった。とにかく主人公の終止曖昧な目が印象的だ。作中、レストランの女性と知り合った主人公が、けして恋に落ちたりしないのも面白い。