森美術館コルビジェの展覧会を見て来た。ずいぶんと工夫が凝らされ、またお金も十分にかけた企画のようで、資料と模型と写真の羅列になりがちな建築家の展覧会としては見ごたえがある。ことにコルビジェのアトリエ、集合住宅の代表作であるユニテ・ダビタシオンの一室、晩年のカップマルタンの小屋という、中に入ることのできる実寸大模型は、空間のサイズが実感できて面白い(実作を知っているひとから見れば、細部やテクスチャの再現が気になるだろうけど)。僕が知る限り絵画まで展示するようなコルビジェ回顧展は、1996年に池袋のセゾン美術館で開かれたコルビジェ展以来で、ボリュームだけ見れば当時のものを大幅に上回っている(質の判断は微妙だが、ここで「昔の展示の方が良かった」とは安直には言いたく無いし、事実上きちんと思い出せない展覧会と比較するのも不当だろう)。この展覧会の主眼は、コルビジェを一種の総合アーティスト、絵画や彫刻も建築と同じように手掛け、多数の著作を持つ「哲人」(実際、そういう言葉が展覧会会場のキャプションで使われていた)として捕え、彼の建築や都市計画はあくまで総体としてのコルビジェの一面の発露である、とした点だと思う。


だからこそ、かなり多数の絵画や彫刻、タペストリー、部下と作った家具や若い時発行していた雑誌まで展示しているのだろう。そして、その結果、この展覧会は、皮肉なことにコルビジェとはまさに建築家以外の何ものでもないことを示してしまっている。まず単純に言って、コルビジェの絵画および彫刻作品はほとんど独立した作品としては見るに値しない。ことに絵画が酷い。ごく初期の静物画などに素人らしい実直な魅力がある以外は問題にならない。何も難しい話では無い。画家としてのコルビジェは、油絵の具が扱えていない。素材としての絵の具の特性を把握し、それを実際のキャンバスに置いた時の状況をきちんと見ることなく、事前のプランに従って乱暴にダイアグラムを描いていくだけだから、モタモタした筆はこびが画面を重苦しくしてしまい、そのモタつきが、反ペインタリー性とかなんとかいう以前に「単に下手」にしか見えない(くらべるのも何だが、つくづくピカソは絵の具が自在に扱える人だったことがわかる)。


コルビジェが、いわば絵画というメディウムとほとんど対話をしていないことは、その作品サイズのあまりの無頓着さにも現れている。大味、という意味では絵の具の扱いより更にだめなのがこのフレームサイズに対する意識のなさで、毎日午前中は必ず絵画制作に当てていたという真面目さが、もろに逆効果の単調さとして露になっている。悪しき習慣として絵を描いてしまっていたのがコルビジェで、そういう意味では彫刻作品の方がまだマシかもしれない。建築作品における色彩の扱いなどに、画家としての感受性があるのではないかという議論は、建築のプロの間ではやはりされているのだろうか。これも僕にはあまり信じられない。あくまで写真や模型を通しての印象だが、コルビジェ建築における色彩は、どう見ても二次的なものであって、面の構成分割などでの色彩の部分的利用は、むしろデ・スティルなどの方が遥かにこなれていると思えるし、いずれにせよ「画家」でなければできないものではないだろう。ロンシャンの礼拝堂の色ガラスの効果は、むしろ色彩というよりは空間との関係における光線の扱いが徹底的に美しいのだろうから、ここでもどちらかといえば建築家としての類い希なセンスが発露していると見て間違い無い。マチスの礼拝堂のステンドグラスの効果が、あくまで壁面に映り込む「平面上の効果」としてあるのと、見事な対称を描いているというべきだ。


コルビジェは建築家として、本当にすばらしく空間を操作し構成している。というよりは、建築空間というものをそれ以外の全てのもの(絵画も当然含まれる)から切り離された、完全に自立した要素として扱いそれ単独で展開させた巨人こそがコルビジェであって(もちろん、先行するライトには、まだ“オーガニック”な要素が残っていた)、だからこそ近代建築のマスターとして評価されてきたのだろうし、これは決定的に正しい。それが教科書的にすぎてつまらないだとか、初期や晩期に例外的なものがあるとかいって細部をクローズアップし、やれモダニズムの枠に納まらない広がりがあるとか、思想的に深いとか言っても、そんな事は正直言って瑣事であって、どんな作家だって細部を探せば例外的な部分というのは出て来るはずだし、そもそもそのような事(神格化を前提とした細部のアカデミックな調査)をさせるのは、圧倒的なモダニズムの巨匠としての高みがコルビジェにあるからだ。自由な平面や壁、柱からなる空間それ自体をマテリアルとして、徹底的にオペレーショナルなものとして非人間的に解体/再構成しているからこそコルビジェの空間はアバンギャルドなのだ。


ここですぐに、モジュロールなどを持出し人体を単位として空間構成に導入したのだから、コルビジェモダニズムに納まらないヒューマンな面がある、とか言い出す人がいるのだろうが、もちろんまったく逆だろう。どうしたって標準化できようもない人体というものすら、黄金比や数的幾何学に還元してしまう、その反人間性こそがコルビジェの過激さなのであって、なまじモジュロールをヒューマニズムなどの点で見たら、その露骨な白人男性中心主義こそ批判されるべきだし、一度そうなったらコルビジェ=モダニスムの、もっとも暴力的な側面、すなわち圧倒的な植民地主義が全面化する。カタログで磯崎新が触れている、ムッソリーニヴィシー政権への接近は、はたして単なる「政治音痴」故なのだろうか。僕にはむしろ、モダニズムというものに内在する危険性なのではないかと思うし、ナチスに接近しなかった感受性こそ誉めるべきだろう。くり返すが、この展覧会であぶり出されるのは、あくまでモダニズム建築家としてのコルビジェの凄みそのものだ。意外なくらい公共建築や都市計画で失敗し続け、最良の作品がほとんど住宅と教会だというのも、その名前の大きさに比べて、実作においてはポピュラリティーから程遠い−限定された人々にしか受け入れられていない人だったことがわかる。


わずかにコルビジェ人間性、というか感覚が伝わってくるのは、実寸模型で感じる「狭さ」だ。もちろん美術館内部に作る模型なのだから、こじんまりしたものが優先的に選ばれているのはあたりまえなのだが、例えば開放的なアトリエの高い天井のボリュームの背後に、驚く程狭く天井の低い書斎のような場所があることや、1m80cmという白人男性の体格を基準にしているには、明らかに窮屈に見えるユニテ・ダビタシオン(「子供用シャワー」なんていう設備はほとんど冗談みたいだ)、そしてなにより最後に辿り着いたカップマルタンの小屋(なんとこの狭さで夫人と「二人のため」に作られている)と並んでいると、どうしてもその「狭さ」指向が強調される。どこかこの「狭さ」に、コルビジェ個人の嗜好が現れているように思うのはうがちすぎなのだろうか。カタログは分厚くやや高価だが、槇文彦氏の日本におけるコルビジェ受容に関するエッセイは、その読みにくさにも関わらず興味深いし、磯崎氏があいもかわらずパフォーマティブに煽っているのも面白い。先日の新国立美術館でのタトゥーリン・第三インターナショナル記念塔の再現CGに続き、長倉威彦+馬場信介によるソヴィエト・パレス再現CGが再見できたのも嬉しかった。この人のCG作品は、ぜひパッケージ化して販売して欲しいのだが無理なのだろうか。


ル・コルビュジエ展:建築とアート、その創造の軌跡