アニメーション「電脳コイル」で最も注目すべきはその身体性へのこだわりだ。ネット環境を近未来の子供達にとっての“原っぱ”、つまりフィールドとして捉え、そこで展開する子供たちの心理関係を描いているこの作品は、様々なITガジェットをちりばめながら、しかしその実、リアルな場を駆け抜け、飛び跳ね、転びつつ起き上がるという、少年少女達の体と運動を捉えていることこそが特徴になっている。


広域無線LAN都市のように設定された地方の町は、ネット端末であるメガネをかければ、街路でも公園でも可視化された情報が受け取れ、また発信することができる。情報技術に熟達した子供達は、管理されていない情報空間の破れ目や抜け穴に、独自の物語りを読み取り、それらを追って縦横無尽に移動してゆく。彼等は自らのカスタマイズしたネット端末(メガネ)を取り締まる大人から逃げるため、あるいはネットにしかない謎やドラマを追う為、塀によじ登り、建設途上のビルに忍び込み、廃棄されたバスの下を穴を掘り、神社に駆け込み、学校に潜み、交差点を走り切る。そのたびに彼等は汗をかき、ひざ小僧を擦りむき、涙を流し、叫び、疲れて座り込み、乾いた咽をうるおす為ラムネをごくごくと飲む。そういった、個々のシーンでの細かなリアリティを積み上げる事で、このアニメはファンタジーとしての充実を持とうとしている。


作品全体のイメージに新鮮味はない。というより、はっきりした過去作品からの引用で作られているのが「電脳コイル」で、宮崎駿となりのトトロ」や大友克洋「アキラ」、「攻殻機動隊」シリーズetc.のイメージの流用元を上げるのは容易いだろう。特に、メジャーではないもののネットの描写において革新的だった1998年の作品「serial experiments lain」(以下lain)は、「電脳コイル」を見るに当たって重要な参照項となる。ネットを遍在する環境として把握し、そこで展開する人々の心的な繋がりの欲望と断絶を、少女の内面と重ね合わせて行くという世界観は、細かなアイテムや個別のシーンのレイアウト・演出といった水準ではない、土台の部分で「電脳コイル」を規定している。その影響の深さは、「トトロ」や「アキラ」からのイメージの参照が一目でわかる程直接的であるのに比べ、「lain」からの参照は、どれも“反転”していることに見てとれる。例えば「lain」が、画面を極端に暗くし夜のイメージで作画されていたのに対して「電脳コイル」は明るい昼のイメージで描かれるし、「lain」が一人の少女を分裂させて描いたのに対して「電脳コイル」は二人の少女を対比的に描きながらその接点を探るような展開を見せる。


そして「電脳コイル」が「lain」と最も対照的な面を見せるのが、先に書いた身体性の強調だ。「lain」が主にイメージ的なショット、デジタルエフェクトやCGを先駆的に利用した静的FIX画面にその映像作品としての質を賭けていた事に比べて、「電脳コイル」は上述のようにリズミカルな運動で画面を満たして行く。結果、「lain」が現実とも幻想ともつかない、暗いサイバースペース、およびそれと連続した夜の都心をグラフィカルに見せたのに比べ、「電脳コイル」は同一レイヤー上に重なった情報空間と地方の町の明るい昼間の路上を立体的に描写している。そしてこの反転した特徴は、要所でカメラのブレを効果的に使うという「lain」との共通項で深く繋がっているように思う(こういった所は真に詳しいアニメの知識を持った人からは誤りと言われるかもしれないが)。


lain」と「電脳コイル」は、共にネット空間での噂を重要なキーにしている。そこでは、情報データベースの備蓄と伝播の先進的インターフェースが、恐ろしく原初的な人の不安、心理的というよりは生理的なアンバランスを増幅させ、そこで発生する感情の連鎖が、人の根幹にある幼児性という、どのような成熟した大人でも回避することができない最も無防備な部分を描くのに効果的なのだ。みかけでどのような対比があろうと、というよりはそのような操作が行われる程、「電脳コイル」は「lain」をそのコンセプトにおいて反復している。放映半ばではあるけれど、最終的に主人公の少女の心的不安を、なんらかのかたちで家族(兄?)が吸収してゆくというゴールが感じられる点でもそれは言える。もし「電脳コイル」が意図的に「lain」をトレースしているとしたら、恐らくスタッフは9年も前に作られた意欲作「lain」が、しかしその結末において壮大な失敗作となったポイント、それはまさに「家族」を説得的に捉えられなかったというポイントなのだが、そこを今改めて再攻略しているように思える。


だから、「電脳コイル」は別にパクリでもなんでもなく、まっとうなオマージュと先行作品に対する批評に基づいた作品なのだ。僕がしかし、この作品を今まで追いながら、新鮮味の薄さや丁寧な作画と裏腹な一種の地味さだけではない、かすかな「退屈さ」を感じざるをえないのは、NHKという放送局で、先行する作品をその基幹部分に据えながら新たな試みをしようとするアニメーション自体が、宮崎駿の「天空の城ラピュタ」を模倣しろと言われながら庵野秀明が作り上げた「不思議の海のナディア」のくり返しになっている点が大きい。こんな事は当然制作スタッフは分かってやっているだろうが、そのような、優秀なスタッフの明晰さ自体が「電脳コイル」という作品の限界を形成している感触があるのだ。「不思議の海のナディア」が「電脳コイル」にない強度を獲得していたのは、その条件が、外部から強要された不本意なものだ、ということだと推測できる。庵野氏は以前、インタビューで「ナディア」では「ラピュタ」をやってくれというNHK側のオーダーにいやいや答えながら作ったことを語っていたが(そもそも「ラピュタ」は、宮崎がNHKに「未来少年コナン2」として出した企画が変形したもの)、そのような、強制されたが故のテンションが、「ナディア」にはあったと言っていいだろう。


「ナディア」が作画やシリーズ構成、物語り叙述などの点で今振り返れば不安定きわまりない作品だったにも関わらず決定的な強度を持っていたことに、企画における悪条件を原因に上げるのは早計だろうか。少なくとも、庵野氏にとって「ラピュタ」は単なる参照元でもアイディアの種でもなく、「ナディア」は「やりたいこと」ですら無かった。それが一つの独立した「作品」になったのは、いわば「条件の良さ」とは無関係な内発性に基づくだろうし、逆説的な言い方になるが、内発性とは一種の反作用、ここでは外部からの意にそわない強制への反動として現れたとは言いえるはずだ。「電脳コイル」が、作画の安定的水準やシリーズ構成の在り方などで、「ナディア」より遥かにまとまった、破綻のない進行を見せているのは間違いが無い。それは「電脳コイル」が、強制されたものではない、自主的判断と自由な選択(なにしろ監督の磯光雄氏本人が原案から作り上げていて、今アニメーションでほとんどを占めるマンガ原作付き、あるいはメディアミックス的なものではない、珍しいオリジナルアニメーションとなっている)により組み上げられ、比較的良い条件で優れたスタッフによって作られているからだろう。


そして、その破綻のなさにこそ、どうしても単調さが染込んでいる原因があるように思える。毒がない、というのではない。そういう意味では、「電脳コイル」には、見事にバランスよく「いじめ」や暴力、あるいは権力や生と死といった重い要素がちりばめられている。そのような、適度な暗さの配置こそが、この作品を決定的に明るくしている。無論、僕はここで、「電脳コイル」が「ナディア」みたいになるべきだ、と言っているわけではないし、そんな事ができるはずが無い。むしろ逆で、悪条件や文化的地位の低さがよも悪くもバネとなってきたテレビアニメーションの世界で、良好な条件と優秀なスタッフが揃い、意欲的なオリジナル企画が作られた時、いったいどのような魅力、出来のよさではない吸引力が発揮しうるかが試されているのだろう(つまり好条件、という悪条件をどう乗り切るのかがポイントになるだろう)。


少なくとも「電脳コイル」においてその可能性は「隠されたトラウマ」とか「アニメに対するアニメのメタ視線」とかにはない筈で(そういう所に収束していったら、「電脳コイル」は佳作ですらない、本当に退屈なだけのものになる。この作品はその骨格において、古典的な物語構造で構築されている)、あくまで「lain」への対抗上懸命に描かざるをえない主人公たちの身体性にあると思える。平面的にデザインされたキャラクター達が地面を蹴り上げる摩擦、仮想ペットがフローリングの床で足を滑らせる描写などにこそこの映像の魅力があるのであり、そのような感覚を、一体どこに着地させるのかがこの「電脳コイル」の核を作っている(そこにだけ「避けられない条件」が露呈している)。ここまで相対的に自由に作られている作品だからこそ、恐らくスタッフの無意識が浮上していると言い換えてもいい。この作品は、その見た目に溢れる現代的意匠を一つ剥がせば、驚く程ノスタルジックな世界観で構成されている。それはつまり制作スタッフの世代的感覚がそのまま出ていると推測できるが、それが単なる世代性に留まらないものになるかどうかは、この作品の基底にある“オリジナル”な(つまり取り替え不可能な)ナルシズムをどう処理するかにかかっているように思う。