山種美術館で見た福田平八郎「筍」について。1947年に描かれている。絹本着色で縦134cm×横99.4cmの大きさがある。画面向って左下に縦に長く黒々とした皮に覆われた筍が1本あり、画面中央を空けて右側やや高い位置にもう一本筍がある。背景は薄い墨色の線で単純な形にされた笹の葉が折り重なっていて、一様に覆っている。筍は2本とも緩やかな曲線の三角形を左向き、右向きと組み合わせながら積層させ、頭頂部で面積を細かくし細く引き延ばした紡錘状のフォルムを形成させて現す。各三角形の頂点に小さな緑の三角形を描き、葉としている。この緑の下では三角形の黒が薄くなり黄色の色面が配される。三角形の辺は描き残しのような白い線で示される。このパターンは積層されるごとにくり返されるが、単位の細かくなる頭頂部では密となり上部に縦に葉が添えられている。構造は二本の筍で同じくくり返されるが、左下の筍のほうが長い。一筆書きに近い背景の笹の葉は画面下辺で少し濃い。


福田平八郎は対象を単純な形態のパターンに分解し、それを反復しながら画面に散在させている。「筍」では、要素は黒い三角形、緑の三角形とそこに合わされる黄色の色面、一筆書きの葉状の形態だけに還元されている。これらの要素が、しかし完全に分解し単なる紋様となるのをかろうじて押しとどめ空間を形成するのは、オールオーバーにある笹の葉の線が下で濃度を上げていることと、2本の筍のうち1本を左下に少しだけ長く描き、右上にやや短く描く、という操作による。ただこれだけの事で、画面には下を手前、上を奥とする遠近のイリュージョンが発生する。この空間は、地の葉の均一な上から下への積み上げが古典日本画の東洋的遠近法によっており、図の筍の、左下に来るものを長く、右上に配したものを短くするというパースペクティブの形成はヨーロッパ的1点透視の技法によっている。


福田平八郎において、描画とはほとんど作図そのものだと言っていい。そのような作図が、フレームとの関係を計りながら奥行きのイリュージョンを形成し地と図の関係によって個物となる。福田が興味を持っているのは、単純な線と面による形態の反復と構成が、絵画と呼ばれる特殊な空間を形成してしまう所にある。この絵画的空間とはけして単なる奥行きの感覚のことではない。線や面や色彩といった単位(ユニット)の、平面上の組み合わせ=関係性が、現実と対等なある実質ある世界を形成してしまう、その絵画独自の“次元”を指してのことなのだ。ここで福田が還元し再構成しているのは、単に絵の中だけではない。福田が「描写」と言い、ほとんど幾何抽象のようでありながらけして実際の風景から離れなかったのは、つまりこの世界こそ、線や面や色といったものの組み合わせであり、再構成にすぎないのではないかという認識があるからと思える。福田の描きの痕跡を目で追えば、そこで重視されているのは個別の線や面というよりは、その組み合わせ/連結の在り方だ。だとするなら、福田の言う「描写」から推測される、この世界を世界たらしめているのは、個々の個物というよりは、その連結の在り方、一種のシンタックス(文法)だという事なのではないか。


福田の描写の有り様は、例えば同じ山種美術館所蔵の速水御舟の作品とはっきりとした質の差を見せていく。速水の描写が、対象への信頼、そこにある個物の存在を疑うことなく前提とし、その描きが求心的な集中をみせるとき、そこにはフェティシズムに似た心理が働き、ぶれのない存在が見る物の内部に感情・内面を形成するのに比べ、福田平八郎の描写は分散的で水平的であり、画面に中心を作らず編み目のような遍在性を形成してゆく。福田は筍をけして1本では見ないだろう。「筍」の、中央が大きく空き、むしろ左右に離れてほぼ同じボリューム(向って右の筍は、相対的に短い分太い。すなわち、面積的な存在感でいえば2本の筍には主従が無い)を併置することと、速水の「炎舞」が単純を極めるような垂直的構図を持つことをくらべる時、この二人の画家の、描写という言葉の内実=世界への視線の在り方が、どれほど違うかは明解になる。


●開館40周年記念展 山種コレクション名品選