先月の「うきぐも」展に関して、アーティストの坂中亮太さんがtxtを書いて下さっていました。

遅くなりましたが、改めて深い感謝とともにリンクさせていただきます。


そういえば先日、雨の中「うきぐも」展の打ち上げがあって久しぶりに他の出品者の方やキュレーターの増井さんと御会いしてきたのだけど、展示が終わって時間もたったせいか、かなりざっくばらんに話しができた。そこである程度大きな話題(というか反省会?)になり、実際準備期間中最大の懸案事項でもあったのが6/23に行われた子供相手のワークショップで、半年にわたって断続的に話し合いがもたれ、なんとか皆でやり終えたというイベントだった。


驚いたことにこのワークショップ、開催を発表した直後、ほとんど間をおかずに25名の枠が一杯になったのだ。会場のアトリアは市立の施設で、オープン以来こういった活動を地道に続けてきたことからある程度評価があったということもあるだろうし、なにより立地がビール工場の跡地に出来た大形ショッピングモールとマンションの至近で、目の前にかなりの数の子供達を抱えているという事情もあるだろう。「うきぐも」展の企画が立った時、このワークショップもやることに皆で決めたのだけど、僕自身が子供というのがあまり得意ではなく、普段そんなに接する機会もないこともあって、正直イメージがつかめず途中「大丈夫かなぁ」と悩んだ時期もあった。


実際に蓋をあけてみれば、進行の増井さんの御努力と、なにより場数を踏んでいる優秀なアトリアのスタッフ(僕のようなものから見ればもう眩しいほどテキパキしている)の皆さんの厚いフォローのおかげで、なんとか大過なく終えることができた。打ち上げで皆で話したように、反省すべき箇所はいくらでもあったのだけど、初体験だった自分としては、とにかくやり終えただけで安心してしまったところもある。何が凄いといって、小学校1-2年生くらいの子供25人を相手にするというのが、こんなに大変なことだとは思わなかった。もちろん25人を僕が一人で相手にしていたわけではなく、「うきぐも」出品者4名と増井さん、アトリアのスタッフと、かなり分担してやったのだけど、それであのような大変さだということは、例えば小学校の先生とかやっている人は、毎日毎日とんでもない消耗を強いられるのではないだろうか。


今ではどうか知らないが、僕が小学生の時は、1クラス45人もいて、それが1学年に5クラスはあったのだ。正直にいえば、25名の子供がずらりと「こちらを見ている」というだけで、かなりの圧力がある。僕は高校に教育実習に行った経験があるのだけど、あのときも、生徒というのは本当になんでも良く見ている、と思った記憶がある。こちらの言い間違いからその取り繕い、上がってるとか、目が届いていないとか、上手くいってると思って気を抜いてるとかテンパっているとか、ほとんどのことが筒抜けに近かった感覚だ。もちろん彼等はそんな事はわざわざ指摘しないが、ふとした仕種ややりとりで「ごまかしが効かない」と感じた。


今回の小学生達も、こちらを良く見ている、というのはほぼ同じだ。いったい我々がどのような人間で、何を自分達に期待しているかを、彼等はシビアに判断している。もちろん、彼等のシビアさは、対大人というのと同程度、あるいはそれ以上に、子供達相互の視線に対して十分発揮されている。その社会性は大人とほとんど同じく複雑であり、しかも社会性が大人のもののようにソフィスケートされていないぶん、むき出しの苛烈さとなって彼等をとりかこんでいて、そのシリアスな世界を、彼等は繊細さと図太さを使い分けながら切り抜けサバイバルしてゆくのだ。友達同士、というのも何名かいたけど、多くが初見の知らない関係であった筈で、そういった子供達が隣り合う、という時、そこにあらわれる相互関係は見ていてどきどきはらはらするものがある。


とはいえ、そういった社会関係への視線、というものがぶっとぶ段階というのがある。ワークショップというからには、「自分の作品」を作らなければならないし、このワークショップは段取りが出来上がっていて皆がほぼ同じ物を作る、というものではなかったから、相当程度頭を使わないといけない内容だった。こういうものは一度没入すると、すごい集中する。子供達の能力差、というのは、ほとんどこの「集中しはじめるまでの時間」の長短に集約されていたとすら思う。実際、工作技術の程度はそんなに幅がないし、自分なりのきっかけを捕まえるのに、どのくらい手間取ったか、くらいが問題になる。そして、一度きっかけを掴んでしまえば、彼等はひたすら自分のインスピレーションを展開させていくのだ。


何かを作る、もっといえば目的のないアーティなものを作る事の面白さは、こういう所にあると思う。それまで子供相互の社会性に気を配り、「指導」する大人の期待する答えを推し量ることに懸命だった子供達が、ふとジャンプして、自分がもっている技術と経験を「自律的に」ある組み上げ方をして、大人の判断基準でも、子供同士の縄張り争いとも無関係な、それ単独で成り立つ「作品」というものを作ることに気付く。そういう世界があると知ること。そして、そういうそれ単独で成り立つ「作品」が力のあるものであれば、その力は自立しているだけでなく自分も他人もポジティブな気分にしてくれるということ。そのことが少しでも伝われば、と思いながらやっていた。


もちろん、他人の欲望から自由な人間などいない。しかし、オール・オア・ナッシングではなく、少しでも相互の欲望の関係性の不自由な拘束合戦から飛び上がる感覚を知ってくれたのだったら、このワークショップもそれなりの内実を持てたのでは無いかと思う。当然だけど、こういう事は大人ならできるというものではないし美術家なら上手だ、というものでもない(今の「美術家」なんて、ほとんどが“相互の欲望の関係性の不自由な拘束合戦”でトクをする技術しか磨いていない)。誰であっても不断に訓練しなければいけない感性で、やっぱり最終的には自分の勉強にもなっていたのだろうと思う。そして「うきぐも」展での僕の作品も、そういう訓練の一端としてあったものなのだ。