A-thingsで行われた、松浦寿夫氏と林道郎氏の対談を聞きにいった(岡崎乾二郎をめぐって)。僕はこういう催しに出かけるという習慣があまりないのだけど、今回の企画は岡崎乾二郎氏の作品集の発刊イベントを兼ねていて、こんな試みが小さなギャラリーを主体に行われているという事実に驚いて思わず参加した。今どき現代作家の画集(それもまともな美術家の画集)なんて滅多につくられないし、ちょっと油断すると入手が難しくなる。どのくらいの販路が確保されるのかも心細い。買える時に買っておかないと後悔するハメになる(現に、軽井沢のセゾン美術館で行われた岡崎乾二郎展のカタログは、結局絶版になってしまって僕は持っていない)。現場に到着直後に購入してとりあえず一息ついた。今刷り上がったばかりと言う作品集はこじんまりとしてささやかで、センスよく美しく仕上げられてはいるものの、一部の作品図版の精度なども含めて、それなりに厳しい条件で作られたこともうかがわせる。だからこそ一層このような事業が実行されたのは特筆するべきだと思う。


岡崎乾二郎という、けして派手ではないもののそれなりのネームバリューがある(一部には熱いファンだっている)作家ですら、このような小さな画集が出る、ということは画期的で、それが今の日本の美術状況であり出版状況なのだ。かつてはとりあえず清塚紀子の版画集なんていうマニアックなものが、それなりの立派さで作られ一般書店で売られていたのだし、京都書院が出していたART RANDOMという野心的な同時代美術の画集シリーズが(やや人選が疑問ではあったものの)普通に刊行されてもいた。今は昔、と言う他はない。webの画像でいいじゃないか、という判断はとりあえず画家としてはありえない。画家にとって画集というのは単に見るもの、というより半ば「使うもの」であって、少なくとも印刷物としての解像度は必要になる(webのモニタ表示の画像の解像度は72〜96dpiであるのに対して印刷物は300dpi以上)。どうしたって、ある程度以上は売れていかなくちゃいけないという現実があるが故にこういう状況なのだろうから、今回の作品集も、できればweb経由の販路もあってほしいと思う。すくなくともこういったblogのエントリで直接購入窓口が示せないというのはイマイチだ。とりあえずA-thingsのURLは載せておく。


この作品集を改めて自宅でゆっくり見ながら思ったのが、対談中でも林氏が冒頭に上げた一種の“無警戒性”の指摘(それは岡崎氏が無警戒だ、というより、観客を無警戒にする、というニュアンスだったと思う)で、これに対しては松浦氏が以前の大作にもそのような要素があった、と返していて僕もうなずけるのだけど(以前、共通点のあるエントリを書いている。参考:id:eyck:20040506)、そうは言っても確かにその無警戒性(警戒解除性?)がより一歩強化されているという感覚は確かに感じられる。要するに、見ようによってはあまりに「チャーミング」なのだ。この作品集もそうだし、A-thingsの展示を見ても思うのだけど、洗練された色彩と“美味しそうな”テクスチャは、何かどこかのパティシエの作ったスィーツがショーケースに並んでいるようなイメージにも見えて来る。更に画題が「可愛い」(これも対談中触れられていた)。今までの、書き上げる気も失わせるような長いセンテンスとしての画題ではなく、「可愛い」画題が付けられている(この作品集では、作品図版の隣に画題がキャプションされている)のを見ると、一種の戸惑い、「こんなに綺麗な絵をまっすぐ綺麗、と感じてしまっていていいのだろうか?」という感覚を抱き始める。つまり、林氏が言っていた「大作には魅力を感じながらも、どこかで罠があるのではないかと身構えた」という指摘が、最終的にこの小品でも表れているのかもしれない(警戒心の性格は明らかに違うが)。


対談中もっとも記憶に残っているのは松浦氏が発言していた、岡崎乾二郎における非ジャンル性だ。正確さに欠ける記述になるが、要するに岡崎氏においてはそれが絵画でも彫刻でも、問題はある複雑な知覚経験の起動とその組織であって、ジャンル(ことに絵画性)に固執したグリーンバーグよりは、すくなくともジャンルを問題にしないマイケル・フリードに作家本人は相対的に近いだろう、ということだった。僕自身、今回の作品をあくまで絵画と彫刻の“間”にあると捉えていたのだけど、そもそもそのような「絵画と彫刻」という構造自体が問題にならず、もっと不定形で無限定な何事か、として岡崎氏の作品を捉える視座として興味深かった。しかし、同時に、やはり今回の作品はどうしたって「絵画」としてあることは疑いないと思える。そこで組織され組成された知覚が絵画であるとかないとかを無効にするようなものだったとして、にもかかわらず、そのような「作品」が「絵画」として表れている(そのような作品は、可能性としては他でもありえたにも関わらず、しかしその可能性自体は絵画として計画もされ定着もされたものを通してしか把握されない)、という点は、なお検討に値すると思えた。


対談にもう少し触れておくと、意外だったのが松浦氏の発言に何度も笑わせられた、というところで、松浦氏はけして受けをとろうとかそういう配慮はまったくしていなかったとおもうのだけど、むしろその、反ライブ性というか、聴衆とは無関係に放たれた言葉が、その姿勢によって思わず笑いを引き起こしてしまう、という状況を産み出していたのだと思う。もう少し踏み込めば、いわば笑わざるをえないような、不意を突くような鋭さがその言葉には含まれていて、そのような発語が投げられた時、聴衆は半ばショックを吸収するように「笑った」のではないだろうか。例えば僕が一番大きな声で「笑った」のは、松浦氏が、作品を成り立たせている関数(要するに作品の構造のようなもの)を「読み解く」ことが絵を見る事だと思っている人間がいて、そういうのと戦わなければいけない(同時に構造なんか関係ないと言う素朴な精神・内面主義とも同時に戦わなければいけない)と言ったときの動きと発言で、その「ユーモラス」な動きにヒヤリとしたが故に思わず「笑っていた」のだった。


いずれにせよ、ほとんどいろんなアイディアと思考の切っ掛けが、けして完成=閉じる事無く、沢山の宿題を次から次へと宙空に放るように進んでいった対談で(回収して頭にメモしておくのが大変)、岡崎氏の作品について林氏が「自分で何かやってみたくなるような作品」と言っていたのと同じく、自分でその先をどんどん考えさせるような形式と中身だった。そういう意味では、岡崎乾二郎氏の作品および作品集と、上手く呼応していたイベントだったと思う。