夜、テレビを漠然と見ていて思った。絵を描くこと、美術作品を制作してゆくことはどのように社会に繋がっているのだろう。絵や美術は、基本的に社会や現実的なこととは無関係だと言う人は画家を含めてそれなりにいるだろうし、反対に、だからこそ(絵や美術は社会に対して無関係であることを前提として)「社会に開かれた美術を」みたいな言い方がされもする。さらに直接的なアプローチとして、社会的メッセージや政治的主張を美術作品の主題にする人もいる。これらのいずれも、前提的に、素朴な意味で絵を描いたり彫刻を作ったりすることは、社会と無関係なことだということを認めている。だが、もちろんそうではない、と僕は思う。美術作品を作るレベルでも、それを受け止めるレベルでも美術は何であれ社会的だ。


美術作品を作る事は、まず社会的な存在であるモノ/素材を操作して、その事実に従って(従属して、ということでなくそれらを踏まえて)組み立ててゆくことに他成らない。林業で育成伐採された木材が加工工場でパルプになり、さらに製紙会社で紙に仕立てられてカットされトラックや船で輸送され店頭にならび、それを貨幣と交換して手にいれたものに、やはり同様のプロセスを経た鉛筆で線を引く。例え廃材などを利用してこれらのルートと違った過程で入手した材料を使っても同じだ。ゴミは捨てられるまではゴミでは無く、従ってゴミであることはゴミでなかった過程を抜きにあり得ない。自分で顔料を精製し練り上げ、植物繊維を漉いても同様だ(自然は既に再帰的自然だ)。単純なことだけ言えば、大抵の土地は誰かの所有物であり、何を加工するにも誰かが作った道具が必要で、そのノウハウも誰かに教わらなければならず、なにかしらの燃料抜きでの精製は難しい。要するに、社会的なものの外部などありはしない。


ごく日常的な想像力があればよい。戦争が起きて、流通を含めた社会も、そして美術家本人の経済や生活も危機に曝されたら、作品を作るのは困難になる。さらに言えば、そのようにして作られた作品を発表して評価を得、流通させることを考えたら、社会と無関係な美術や美術家などありえないことは良くわかるはずだ。美術家でなくても、美術に関わって生きているひと、さらに広く言えば美術を愛好しているひとにとっても話しは同じだ。およそどのような美術であれ、社会のインフラや経済や安全が前提的にあって始めて美術、というものの総体が存在可能なのであり、だとすれば制作、流通、評価、消費、全ての局面で美術は全面的に社会的なのだ。こういった事を棚に上げた上で、あくまで美術作品の「内容」のレベルでは、美術は社会と無関係に存在する、という言い方をする人はいるかもしれない。しかし、はたしてそうだろうか。


そういう「棚上げ」(カッコ入れ)自体が形而上の話しに限り無く近いのだけど、あえてそういう言い方に身を添わせても、やはり美術は社会的なのだ。人が(自分が作ったものであれ他人が作ったものであれ)作品を美しい(=価値がある)と思う、という行為自体が既に社会的なのであり、それが一切他人の目に触れずに消去されたとしても、自分-作品の間に成り立った関係の社会性は排除できない(無論ここでの「自分」は「作家」だけとは限らない)。自分-作品の関係は言ってみれば鏡像関係であり、それが鏡像であるかぎり、必ず意識の背後に「目には見えないが抜き難い社会」が存在する。要するに、作品と言うのはどうしたって社会的なのだし、だとすればその社会性の高さは主題の問題では無く単に作品の強さの問題だ。「社会的」美術作品が往々にして退屈なのは、作品の社会性の把握が上記のような原理的なレベルではなく表層的だからであり、逆説的だが面白い「社会派」作品は、たいていその「社会派」な部分を抜いても面白い(面倒な言い方だけど、作品は自律的であってこそ初めて十分に社会的になる)。


例えばボルタンスキーを僕はそんなに素晴らしい作家だとは思わないが、そうは言っても2000年の第一回越後妻有トリエンナーレで見ることの出来た「リネン」は、その成立過程やメッセージを抜きにしても見ていてポジティブな気持ちになる、相対的に良い作品だと思った。真夏の真っ青に晴れ上がった新潟の空と、そこに広がる畑地の広がりにたなびいた白い服達は、同行者が熱中症で倒れる程の太陽光線にあぶられながら、草木と一緒に揺れていて、かなり強いコントラストを形成していて目に焼き付いた。この作家は、つくづく視覚的なインパクトを組織するのが上手いなと思ったし、そのような、ごく単純な「見た目」を作るテクニックの冴えがあって始めて人はそこに物語りを読む誘惑を受けるのだ(逆を言えば、その作品は物語り抜きではごくシンプルな見た目勝負の作品に過ぎないとも言えるが、少なくとも「見事な見た目」を生成する作家であることをまず指摘しなければフェアではない)。


美術作品を中心とした、作家、観客、学芸員、研究者、画商、ジャーナリスト、批評家、その誰もが美術の社会性を抜きにして存在できない。美術が「閉じられている」とか言う人はたいていその人本人が閉じているだけで、作品を「見る」時にごくまともに「見ることができない」ことを作品に転化していることが多い。僕がこういう事を今いいたくなったのは、別に現実の「社会」に対して今すぐどうこう、というアジテーションを打ちたいためではない。むしろ、極めて長いスパンで、美術に関わっている人は自分の立つ場所の社会性を意識すべきだ、と言いたいのだ。「長いスパン」という言い方は、持続的な、今この瞬間から始まる時間の流れ全般に渡って、という意味がこめられている。そして、それは時間的な広がりだけでなく、位相的、空間的な広がりを持っている。今から未来へ向けて、自分から家族、友人、他者へ向けて、この場所から地上すべてに向けて、その社会性は連続して波及する。もちろんそれは双方向で、家族、友人、他者から自分へ向けて、地上すべてからここへ向けて、そして未来から遡っていまに向けて、社会性はやって来る。その相関関係の編み目に「作品」は産まれる。そういう視点で見た時、最低限度の社会的合意、というものが少なくとも美術に関わるものには共有される筈だ。


分かりやすい例をあげれば、爆弾の降る場所で絵は描けない。銃弾の行き交う場所に美術作品は置けない。美術および美術作品は、根本的に戦争を忌避する。逆も言える。条件付きだろうが正義感からだろうが、戦争を承認する人は美術より大事なものがあって、美術より優先すべき事柄があり、美術を最重視はしていないのだ。もしその人が美術家または美術に関する仕事をしているのならば、すくなくとも控えめには次のことが言える。あなたは自分にとってもっとも大事ではないものに、人生の重要な時間と労力を払っている。誰もが自分の一番大事なものに常に関れるわけではないにせよ、あなたはそのことを自覚し、可及的速やかに今の自分の立場を放棄して、あなたがもっとも大事だと思っているもののもとで生きる努力をすべきだ。当然、それが簡単ではないことは理解できる(例えば誰もが兵士になれるわけではないのだから)が、だとするなら、せめて美術が最も大事だと思い、その結果戦争を忌避している人を批判したり妨害したりすることはすべきではない。万一、美術に熱中できない空虚さを外部に投射しているのであれば、まずそのことを改善すべきだ。


自分の足下から始まって、もっとも遠い場所・時間にいたるまで切れ目なく連続する「社会性」を意識すること。それを維持しないかぎり、今、目の前の作品を作る事も見ることもできなくなる。そして、その「足下から遠くまで」という広がりを意識して、始めて僕達は、現実の、生な政治について考え、行動することができる。その大きな枠組みを統制的理念というのかもしれないが、いずれにせよ美術に関わる人々は、確実に「次の100年」の間、美術が成り立ち、持続し、展開できる原理とシステムを意識していくべきだろうと思う。