四谷アート・ステュディウムで平倉圭氏の講座「脱-知覚的不確実性/映画と「顔面」の現在」。平倉氏はやはりライブ向きの人だと思う。そこで行われるのはある程度「説得」という行為で、もちろん「説得」というのは文書で行われるより対面で行われた方が効果的なのだ。これは平倉氏に内在する問題ではなく、「映画」の問題かもしれない。すなわち「映画」とは「説得」の技法である、ということで、映画に限り無く接近しようとする平倉氏の講義は、いつのまにか映画そのものののようになってゆく。映画研究者に向ってこういう言い方をするのは安直だが、平倉氏の分析の手付きは、実際問題としてほとんど映画制作のそれに近いのではないか(以前のphotographers' galleryでの講義の時、聴衆の方が映画制作者の行う作業と平倉氏の分析の手付きの共通点を指摘していた)。平倉圭氏の講座を聞くことはいつも、面白い映画を見る事と相似形だと言っていい。


平倉氏は、例えばゴダールの映画をバラバラに解きほぐし、1コマずつ並べ替えては再構成し、多くのゴダールの観客にとっては漠然としか感知しえないような仕掛けを析出してゆく。ゴダールの手法を使ってゴダールに近付こうとする様は、ほとんどゴダール(についての)映画みたいになってくる。映像だけではない。今回の講座は音声のバラシ(解体)にまで踏み込んでいる。「ゴダールリア王」での鳥の鳴き声のピッチを変化させ、2つの異なるシーンの鳴き声が同じカモメの声であることを示してしまう。そういった、極端な細部の検証の集積によって、観客は見事に説得されてゆく。そして、その過程が極めて映画的なのだ。例えば我々は、「スター・ウォーズ」を見ている時、そのスクリーンに起きている荒唐無稽な出来事を、しかし呆れる程そのまま受け取り、半ば「信じて」いる。そんなわけがないにもかかわらず、目の前に宇宙空間が広がり、戦艦がレーザー光線を撃っていて、そのことで人が死んだり戦いに勝利したりしている、と思ってしまう。あのオープニングのジョン・ウイリアムズの音楽とロゴマークの出現のインパクトで感覚が麻痺し、続くスター・デストロイヤーの登場、その(多くのプラモデルマニアが熱中した)ディティールが画面を埋めて行くシークエンスを見ただけで、我々は「説得」されてしまったのだ。


平倉氏の講義が、そのような「説得」としての映画に限り無く接近してゆくことは、すなわち平倉氏自身が述べる「映画・映像の詐欺性」を不可避的に本人が帯びることになる。これほど説得的なゴダール論などありはしないだろう事は確実であるにもかかわらず、というかだからこそ、どこまで行っても平倉氏の講義はどこか“うさんくさい”。細部を厳密に確定してゆけばゆくほどその“うさんくささ”は加速度的に肥大してゆく。たとえば、あるイメージとあるイメージが「同じである」と言う事、それは極めて明示的だ。同様にあるイメージとあるイメージが「違うものだ」と言うことも疑いえない。しかし、あるイメージとあるイメージが「似ている」という事は、ほとんどそれを信じるかどうかという受け手の無意識の跳躍が必要になる。塩と砂糖が似ている、と言われた時、言われた側はどう判断するか。しかし平倉氏は、映画がそうであるように判断力を観客からスピーディーかつ暴力的に奪ってゆく。AとBは「似ている」。なぜならBとCは「似ている」し、CとDは「似ている」し、DとAは「似ている」からだ。このような「説得」が、次から次へと提示され、椅子に座って聞いている観客は、いつしか映画館でスクリーンを見ているかのようにその「似ている」という決定事項を信じてゆく。


誤解を避けるために書けば、僕は平倉氏を批判しているのではない。とにかく精緻な分析と明解な論理は比類ない。細部を取り上げているのにポイントがはっきりしていて、けして迷路に落ち込まない事は、以前も感じた(参考:id:eyck:20070328)。もっとも素晴らしいのは、平倉氏はこういった論理展開を英語で行使しうるだろうことだ。こんなある意味単純な事実が、しかしここまで実際的な効果として予感できる人も少ないだろう。どれほど魅力ある論であっても、それが日本語でしか発揮できないかぎり、ある範囲に影響力が限られるのは当然で、当然であるが故にあまり語られないが、平倉氏のようなタレント(才能)が出現した時、その事実ははっきりするはずだ。いずれにせよ、多分、平倉氏に反論しようとすれば膨大な検証の積み重ねが必要だ。そのような力技ができる人などほとんど想定できなくて、ということはきっと、専門家であればあるほど、その論証にはとりあえずうなずくのではないだろうか。そして、その時、誰もがどこかで「うなずかされた」自分に気付くだろう。


もちろん、そのような説得の論理は、平倉氏が我々に向けているのではなく、映画が平倉氏に強いているものなのだ。だからこそ、その「説得」には奇妙なくらい我田引水なエゴイズムが感じられない。そういう意味では平倉氏は既にメディア=間にあるものとしてのスクリーンになっている。平倉氏自身がこの講義のイントロダクションで言っていたとおり、「メディアの向うは不確定」になるが、だとすれば平倉氏は既に「イタコ」になっているわけだ。平倉氏にはもはや「説得的」存在である自己が操作できないはずだ。霊にリモートコントロールされているイタコのように、平倉氏は映画にリモートコントロールされている。だから、平倉氏のライブを体験した人は、その会場を後にしたあと、それが正しいとか正しくないとか言う以前に、きっと映画館を出た後のように「ああ、面白かった」と言うのではないか。