昨日コバヤシ画廊で林佳慧展を見たが、少し印象的だった。大形のキャンバスに描かれた油彩画が3点あって、いずれも横構図にブルー+グレーのトーンのバリエーションの絵の具がたっぷりと引かれ、そこにやや濃いトーンのストロークでコイルのような渦巻きが伸びている。また、何かしらのメディウムが垂らされたような凹凸が画面上に配されている。そのマチエールのエッジは、さらに上から絵の具がおかれているため丸くなだらかで、角を削られ磨かれたようなフォルムを見せる。描画はキャンバス側面にまで及ぶ。やや荒く張られた画布が頭を十全に埋没させていないタックスで盛り上がるように止められているが、その上から絵の具が置かれていている。絵の具は油を添加されているが薄くなりきらず、かといって伸びが失われるほど濃くもないない程度に調整され、各トーンはその境界線が微妙に混ざりあう。


やや傾きながら横方向に積層された層によって、画面には深奥空間が形成される。青とグレーのグラデーションは容易に気象的なイメージや水平線のような感覚を惹起し、狭い色調のトーンが滲んでいることで、画面はほぼ映像的な風景に接近する。だが、その映像性を壊すのが画面中に引かれるコイル状のストロークで、3点中、会場正面の作品ではこのストロークの画面中での占有率が最大になる。すなわちこの作品が最も「映像的」ではない。会場左右の作品ではこのコイル状のストロークは小さいか弱く、そのぶん地になる横方向の絵の具による映像的・風景的イリュージョンが支配的になる。また、バックヤードではこのコイル状のストロークに繋がるようなバリエーションのタッチを紙にドローイングした作品が多数置かれていて、ここでは地は紙がそのまま生かされているものが多い。さらにこのバックヤードにはファイリングされた写真が置かれている。いずれも湘南の海岸と海を撮ったもので、これが絵画作品のイメージの元であることがわかる。


林佳慧氏の作品の面白さは、この、海の空間のイリュージョンの中に埋もれるようでありながら完全には溶け込まない、渦巻くストロークの運動感覚にある。つまり像(イメージ)の中に、それだけ身体性が刻印された、画家の腕の大きな軌跡の痕跡としてのストロークが刻まれることで、林氏の画面は最低2つの次元に分解されており、その異なる次元が重ね合わされている。そういう意味では、海の空間のイリュージョンと拮抗するまでに身体性が強く出ている会場正面の作品が最も強く、優れていると思える。また、林氏の画面をやや複雑にしているのが、表面の絵の具層の下に潜り込まされたメディウムによるマチエールで、この触覚的な凹凸(バックヤードの写真ファイルの1ページ目には海が写らず足跡ででこぼこした砂浜だけを撮った写真があるが、このイメージと絵画作品のマチエールは明らかに共通する)があることと、コクを失わないように繊細に調整された絵の具の濃度によって、地になる映像的な層も単なる写真的なイメージではなく、作家の身体感覚が含み込まれたイリュージョンに見える。つまり、そこに感じられる「水のイメージ」は、単に“外から眺められたカメラ的な”ものではない。いわば“水の中から直接肉眼で捉えられた”ような生々しさを孕んでいる。


一般に、薄く解かれた滑らかな絵の具を使って作られる映像的なイリュージョンは、明らかに「外」からある対象をカメラ的に捉えたものの再現で、要するに写真/映像メディアを模倣している。林氏も写真は撮っており、作品からもそのような写真に対して従属的な感覚は感じられるが、この作家は、その絵の具の濃度のコントロールやマチエール等によって僅かに完全な映像性の再現からズレを持つことに成功している。つまり林氏の作品は映像的なのではなく肉眼像(機械的メディアによって映されていない像)的に見えるのだ。更に、そこに「像」ではない腕のストロークの痕跡を置くことで、作品は微妙な分岐路をぎりぎりのところで非・映像の方向へドライブする。このコイル状のストロークが、例えば眼前で砕ける波の「映像的」再現であったら林氏の作品は絵画である意味を失う(単に波の写真を撮ればいいのだ)。そうでなくて、このストロークは、たとえば泳いでいる時に波に呑まれ激しく海水の中を(死の予感を持ちながら)スクリューしてゆく時の運動性が、視覚に変換されることなく腕の運動として変換された、と言った方が正確だろう。バックヤードの写真は、あくまで画家の水/海に対する身体感覚を想起するための素材だろう。


公平に言えば、3点中のストロークの弱い2点はザオ・ウーキー的というか、単に気持ち良いだけの作品になっていると思えるし、それは抜き難く「気持ちだけで描いている」からこそだろうという印象も否めない。正面の作品の大きなストロークがあってかろうじて「絵画」として自立していると言うべきかもしれない。この作家が、もしもう少しだけでも「映像」に流れたとしたら、林氏はただちに絵画を制作する根拠を失うだろう。だが、そのような危うさを綱渡りのように渡りながら林氏が手放さない一種の皮膚感覚とその記憶は、映像にぎりぎり近接しながら逃げ切ることで、かえって特異な形で定着していると思う。


●林佳慧展