そういえばヘンリー・ダーガーの展覧会を見ていた。原美術館での展示はとっくに終わっているが、この人の日本での語られ方、受容(消費)のされかたには違和感がある。簡単にこのエントリのオチを言えば、ダーガーは美術的な判断の上で「病人」とされたというよりは、アメリカ社会の構造の中で「病人」にされている。そしてダーガーが「アウトサイダー・アート」である事を喜び消費している日本人は、僕の見るところ「病人」ダーガーに自己を投影している。つまり、自分が病人として位置づけられる/価値づけられる/欲望される事に不透明な喜びを覚えていて、そのような自意識の保護のためにダーガーを利用しているように見える。さらにその構造は、美術消費の場面だけでなく生産の場面でも見える。つまり、現在日本のアートは自らを積極的に「病人」として世界(ほぼアメリカの事と言っていい)に認めてもらおうとしている。結果的に内部=巨大な閉鎖病棟である日本内で「まとも」であるような美術家は、なぜか「異常」とされる。その倒錯性がある断面を見せているのが国内のヘンリー・ダーガー現象だ。周知のように、ダーガーはどこよりも日本で大きくフューチャーされている。それに比べれば欧米での評価は限定的だ。ここには明らかに日本という症候が見てとれる。僕は1993年の世田谷美術館でのパラレル・ビジョン展を見逃しているので、国内におけるダーガー受容のもっとも重要な場面を知らないことになるが、2002年のワタリウム美術館でのヘンリー・ダーガー展、2005年のハウス オブ シセイドウでの「Passion and Action−生の芸術 アール・ブリュット」展は目撃している。その時の印象と併せて、自分の感じている違和感について考えてみる。


最初に提示したいのは日本人が積極的にダーガーをアウトサイダーアートとして評価することへの疑問だ。こんなエントリを書いていると、まるで僕が自分を「日本人」の外部に置いているようだがそうではない。ごく一般的な「日本人」の感覚でとらえて、ダーガーは病人ではないと思うのだ(ダーガーが病人ならかなりの人を病人だと認定しなければならない)。そもそもアウトサイダー・アート、あるいはアール・ブリュットの定義が状況的に言ってあやふやなのだが、ここでは一般的な解釈、すなわち美術教育を受けていない、神経症あるいは精神病の疾患者によって制作された芸術作品と定めておこう。厳密には神経症でない画家などいない、という言い方もされるが、アウトサイダー・アートと認識されるのは、いわば作品が「症状」として見られることにあるだろう。クサマの作品、あるいは個人的にはモネの絵も十分「症状」に見えるが、彼等の作品には、そういった「症状」を超える美術史的言及可能性というものがある。アウトサイダー・アート、と言われるものは、基本的にそのような、美術作品としての自立した強度(批評可能性)がなく、狭い範疇での近代的訓練から「症状」の力によって「アウトサイド」に出て、その「インサイド」とのズレ幅が「異常性」=視覚的インパクトとなっているもののことだろう。


ハウス オブ シセイドウでの、他の明瞭に疾患をもっている人々の作品を見て思ったことだが、まず単純に言ってダーガーの作品はそれほど「異常」ではない。技術的にそれなりに高度で、ことに色彩の扱いは限定的であっても洗練されている。あれが異常だというなら、日本のテレビCMとかの反復性や増殖感覚やカット&ペーストとかの方が遥かに異常だ。ことに統合失調症の患者が描いた絵などはフレーム意識がおかしく、紙の余白が大きく片寄っていたり、フレームからはみだすように描いていることが散見される(もっとも、このような絵は児童画にはありふれているが)。ダーガーは、自作の小説(というかあれは既に大説というべきだが)の挿し絵という要請にあわせて横長の巻き物風の紙をわざわざ作っており、明白にフレームに対する意識がある。ここにこそ、ダーガーの絵が日本で大きな支持を得ている理由がある。彼の絵が理解できないほど異常ではないからだ。逆の言い方をすれば、日本人があっさり受け入れられる程度に「普通」だからであり、なおかつ、そんな「普通」のものが「アウトサイダー・アート」という「特別な価値」を付与されているからだ。


ダーガーの技術の積み重ね、工程のシステマティックな組み上げは独学とはいえ十分な「訓練」として作品を発展的に展開させている。その着実にテクニックを積み上げていく過程を追うにつけ、ダーガーに美術教育を受けた経験はなくても基礎的な技術体系を構築する能力があり、なおかつそのような制作物に「非現実の王国」と名付ける(見当識を使い分ける)力があったことは間違い無い。そもそもダーガーは単純労働とはいえ最晩年まで自分で労働して賃金を得て自活しており、素朴に言って一般的な社会人ではないか。ごく若い時にいくつかの問題行動をおこしたことを取り上げて「アウトサイド」としてしまうのは、いくらなんでも極端だしおかしいと思う。要はダーガーはごく普通に絵が上手い素人だ*1。カラバッジオは殺人者だし、シーレは女児への猥褻行為で告発されている。彼らやゴッホの絵がなぜ「アウトサイダー・アート」とカテゴライズされないのか?答えは単純で、ゴッホの絵であれば「症状」として隔離され保護されなければいけない弱さがなく、作品それ単独で美術(史)的に自立しているからだ。日本の状況を見ると何かほとんどダーガーの個人的な嗜好が色濃く出た作品を「あえて」異常な芸術として強調して扱いたいという欲望が感じられる。


繰り返す。僕はダーガーをファインアートの文脈に位置付けるのは間違いで、その作品は特異な素人のイラストレーションの域を出ていないと思う。本人が自分が商業クリエーターとしてありうる/しかし、同時に能力不足(もちろんその能力とはアーティーなものでなく、社会的な交渉力だ。だが、商業クリエーターの“能力”のかなりの割合は当然交渉力のことだ)も自覚しているメモがあることもそれを裏付ける。僕にはダーガーはがんばってもせいぜいタカノ綾と同程度のイラストレーターにしか見えない。ダーガーに類似の性描写や暴力描写のある素人の図像は、斉藤環が指摘するようにオタクの世界に山積している*2のだけど、彼等はいかなる意味でも「芸術的な患者」ではない。あえて美術教育の文脈に沿って言えば、児童画を一定年齢を超えても(第二次性徴を越えても)描き続け、意識だけが児童性、つまり多形倒錯を維持している状態だが、無論それは特徴的なことであっても病人でも芸術家でもない。*3


では、誰がヘンリー・ダーガーを「アウトサイダー」と規定したのだろう。いうまでもなく欧米の文化ヒエラルキーだ(当然そのヒエラルキーは、ダーガーの発見者ネイサン・ラーナー*4が代表している)。そして僕が違和感を感じるのは、日本の美術状況がそのヒエラルキーをあっさり受け入れる、どころか『喜んで』受け入れている点にある。欧米のメインストリームがダーガーをアウトサイドと分類するのは、美術的な判断というより社会的な要請だと言っていい。ことにアメリカにおいては、宗教的な紐帯が社会を基礎づけている以上、「アウトサイド」以外に彼の作品の居場所はない。雑駁に言えば、ダーガーは病人だからあのような絵を描いたのではない。アメリカにおいて、あのような反キリスト的な絵を描くものは病人として隔離されるのだ(ソビエトで反体制者が病人と位置づけられたように)。だが、宗教的バックグラウンドがなくダーガー的「症状」をほぼ社会の内部の許容範囲として取り込んでいる(ましてやコンテンツ産業の名のもとに、幼児的多形倒錯性を特徴に持つ創作物をハイコンテキスト・アートよりメインに据えようとしている)日本は、当然それに対して異なる立場をとるのが論理的整合性というものだ。ところが事態は逆で、これだけダーガーを愛好し、ハイ・アートの展覧会の数倍の規模で消費しその消費に迎合するように「アートである」と繰り返し認定し、かつダーガーと共通するような「コンテンツ」を、国が力を入れて主要な「文化」と位置付けようとする我々は、奇妙にもそれが「アウトサイダー」のもの、つまり「病人の症状」であることを受け入れ歓迎し、あまつさえ強化している。意味がわからない。まるで「自分は病人だ」と世界に触れ回っているかのようだ。


例えば現在日本の主導的アートの国際的評価自体が文字通り文化的ヘゲモニーを握っていると〈される〉欧米の外部=「アウトサイダー・アート」としての評価なのであり、そのような差別的「評価」を、当の日本人自体が内面化して自ら積極的に演じ、驚いたことにそのような「差別を強化する側」から「差別を受けたという評価」を盾にして、近代的ディシプリンを踏まえた美術および美術作家を「下らない」と言ってしまう(参考:http://petapetahirahira.blog50.fc2.com/blog-entry-137.html)ような、ある意味すごい環境を、誰も変だと思っていないのが変だ。近代以前の時代や地域で作られた造形物、未開の人々の作ったものや古代の宗教的オブジェクトも「アウトサイダー・アート」同様の評価を受ける(こちらはプリミティブ・アートと呼ばれる)。実際20世紀初頭の美術に与えたアフリカンアートや印象派におけるジャポニズムも、アウトサイダー・アートと同じようにプリミティブ・アートとして近代ヨーロッパの人々にショックを与えた。この共通項からはっきりするが、言ってみれば「アウトサイダー・アート」とは現代の心理的植民地主義なのだし、日本人がヨーロッパ美術史の「ジャポニズム」を自慢げに語る危険性も、それが心理的プリミティブ・アート≒「アウトサイダー・アート」として扱われていたことへの無自覚さ故だ。


自分たちを病人と規定した「権力文化」内部に、自己を投影できそうな「病人認定の痕跡」を見つけたら大喜びで文脈も理解せず「あっちにも病人がいた!」と騒いでいる。そしてそのような病人は「俺達は病人だと評価され位置付けられた」という『自信』を持ち、病人共同体内部で「健常」な行為をするものがいたら「そんな事をしたら俺達が『病人である』という優位性が失われる」と真顔で揶揄する。こんな状況は確かに「異常」と言うべきだが、この視点こそ「異常」なのだろうか。治療されるべきは僕なのか。それとも無害だった一人の人間を「異常者」として持ち上げている者か。だが、少なくとも、ダーガーその人でないことだけは確かだと僕は思う。

*1:一般に、こういう作家はナイーブ・アーティストと呼ばれる。ダーガーも、あえて美術的文脈にカテゴライズするならナイーブ・アートと呼ばれるべきかもしれない

*2:不思議なことに、ダーガーを症状、つまりアウトサイダーアートと認定する斉藤環氏は、共通項を指摘するオタクの創作作品を「病的なもの」ととらえる事を拒否する

*3:ヘンリー・ダーガーが「アウトサイダー・アート」だとするなら、我々は毎年数日間で数万人を集め、経済界が呆然とするような規模の資金を整然と流通させ、細かな問題は内部で処理できてしまう、どこぞの国家の年金管轄省庁など足下にもおよばないような優秀な自主組織を平然と運営する「普通に有能」な人々を「アウトサイダー・アーティスト」にカテゴライズしなければならなくなる。

*4:ラーナーはネオ・バウハウス所属のハイコンテキストのアーティストだ