国立西洋美術館で「パルマ」展を見て来た。僕は趣味的にコレッジョの描くマリア像を愛好していて、それが目当てだった。通俗的な意味で可愛いマリア像を描く画家で、たぶん良い勝負をするのはムリーリョの「無原罪の御宿り」シリーズくらいなものだろう。僕は学生の頃、レオナルド以降の西洋美術史にまったく興味がなくロマネスクやビザンチンの宗教美術を中心に、かろうじてボッティチェルリくらいまでの初期ルネサンスあたりを追っかけていた。卒業後しばらくしてその頃のフレスコや古典絵画等を石膏版画という独特の技法を使って模写していた時期があるのだけど、アンドレイ・ルブリョフやフラ・アンジェリコに混ざって、珍しく16世紀以降の画家で石膏版画のモチーフにしたのがコレッジョの聖母だった。


今回の展示では3点の美しいコレッジョに出会える。フレスコを移した「階段の聖母」、油彩の「キリスト哀悼」「幼児キリストを礼拝する聖母」がそれで、ことに「階段の聖母」は、ぎりぎり最小限度の図像しか残っていない程大きく破損しているが、そのことがかえってこの作品に緊張感と面白いフォルムの感覚を与えている。マリアの顔から、なだらかな曲線を描いて幼子イエスを抱く胸元、そして量感豊かな下半身と、欠損した漆喰のあれたマチエールに残る像は偶然にしては良く出来過ぎだ。露骨に子宮をイメージさせるようなそのアウトラインは、既に作品の骨格を形作る一要素になっている。


ややもたついた筆の運びと、タペストリーの起毛した表面のようなテクスチャーが目にとまる。明らかにレオナルドを意識している人物の表情と併せて、茫洋とした包容感を産み出している。このような、ある種退行的な画面が内閉せずうっすらと外へと拡散して見えるのは、そのざらついた表面とおおまかで緻密すぎないタッチ、そしてそれが産み出す色彩が、光りを分散的に反射するからだと思える。表面が平滑でなく、かなりの程度凹凸があるためフレスコの描写がざっくりせざるをえず、そのことがかえって的確なおおざっぱさ、というべきサーフェイスを形成している。多孔質な印象の肌合いに当たった光が僅かに乱れていくような感覚は作品を大らかに見せ、それが主題と上手くマッチしている。


「幼児キリストを礼拝する聖母」が来ているとは思わなくて、会場でびっくりした。僕が石膏版画で写した作品はこれだ。普段はウフィッツィにあるものなのだけど、僕が行った時はたまたまコレッジョが置いてある部屋が閉じられていてがっかりした記憶がある。これだけで今回の展示には感謝してもいいのだけど、実際に見た「幼児キリストを礼拝する聖母」には、かすかに違和感を感じた。鮮やかすぎるのだ。キャプションには黄変していたニスの除去を含めた修復作業を終えての公開、とあり、もしかしてウフィッツィが一部閉っていたのもこのあたりが理由か、と思えたが、その修復に軽く疑義を覚える、と言ったら修復の専門家に笑われるだろうか?


しろうとのくせにウフィッツィの修復を今一つ信用できないのはラファエロの「ひわの聖母」が原因で、僕が見た時は修復を終えた状態で展示されていたのだけど、これがどぎついまでに「鮮やか」で、もしや単なるニスの除去だけではなく、加筆が施されているのではないか?と疑わしく思った。もちろん、画集などで見ていた作品は修復前のもので、見なれた図版との差異に違和感を覚えることはあるだろうし、古びた感触を良く思ってしまう倒錯性から自分が自由だとも思っていないが、しかし好き嫌いは別にしてウフィッツィの至宝であろう「ひわの聖母」が、あからさまに“三流”に見えてしまったのはショックだった。今回のコレッジョの「幼児キリストを礼拝する聖母」は、けしてそこまで悪くは見えなかったが、しかしマリアの頭部を覆うベールのエッジが強すぎるのが奇妙な印象を与える。もちろん絵の具の剥離やひび割れがあれば部分的に慎重な加筆があるのは一般的な古典作品の修復の当然の手続きだが、作品と言うのはいやがおうでも古び、壊れるものだ。その速度を可能な限り遅らせる努力は必要なのだと思うけど、もし「加筆」があったのであれば慎重にしてほしい。


今回のコレッジョの修復の内容は詳しく知らないが、もし単にニスの洗浄だけでこの鮮やかさが取り戻せたのだとすれば見事なものだとはと思う。上述したようにもともとコレッジョは相応に通俗性のある画家なのだし、コレッジョの他の作品と比べても画家のイデアが壊されたような印象はもたない(「ひわの聖母」は、他のラファエロと比べても明らかにおかしい)。フィリポ・リッピの「森の中の幼な子キリストへの礼拝」を取材したと思える主題選択と構成、レオナルドとラファエロを見習ったマリアの造形、カラバッジオレンブラントを先駆けるようなスポットライトの演出と、完成度が高いのはもともとのこの作品の美点だ。


これは深読みというか邪推になるが、フィレンツェにはアルノ川の氾濫で多くの作品が汚損・破損され、それを大規模プロジェクトで一生懸命「修復」してきた経緯がある。その過程を取材したテレビ番組を見たが、一部の作品はあまりに被害が大きすぎて、ほとんど描き直しに近い「修復」を施されたものがあった。イタリア政府やフィレンツェはこの修復プロジェクトのために専門の学校や研究所まで作ったようだ。もちろんコレッジョやラファエロの修復はこのアルノ川の惨禍の件とは別だし、いずれにせよ作品の保全の努力に敬意は払う(日本からも、サンタ・クローチェ教会などに見られるように、一定の協力・支援があったはずだ)のは当然なのだけど、万一、「やりすぎ」に近いケースがあるとしたら、というのは杞憂だろうか。


パルミジャニーノの油彩は相変わらずバタ臭い。なんだってこの人は油絵の具をこうギトギト使うのだろう。ほとんど生理的に嫌いな画家なのだけど、そういう意味では「ルクレティア」はよかれあしかれ彼の特徴が出ている。一部群像中の人物頭部のデッサンが狂っているのが気になるが「聖カタリナの神秘の結婚」は相対的に嫌味がない。以前同じ国立西洋美術館での「イタリア・ルネサンスの版画」展で感じたことだけど、パルミジャニーノという人は素描家なのではないか。今回の「パルマ」展でもデッサンとエッチングのほうがパルミジャニーノにおいてはずっと良く見えた。いずれも油彩のようなけれんみがなく、この画家の線の率直な資質が十分発揮されている。なまじっかマニエリズムを代表する画家として位置付けられてしまったが故にタブローや大規模な天井画ばかりが注目されるが、もっとサイドワーク的なところが取り上げられてもいいと思う。ことにこの画家の時代にエッチングという、シンプルに線を定着させる銅版画の技法が普及したのは彼にとってやはりハッピーだったに違いない。他は序盤の細密画などが素晴らしい仕上りだが、あまり佳品はみられない。


パルマ