終わってしまった展覧会だが、Bunkamuraでルドン展を見た。かなりの点数があり、見るのに相応に時間がかかった。1点のこらず集中して見る事ができたわけではないが(会期末だからか混雑していた)、全体に感じられたのはルドンは(ことにリトグラフにおいては)幾何学と光学(色彩)に関心を集中した画家かもしれない、ということだ。ところが、この展覧会の構成はルドンを「文学」と「黒(一色=モノクローム)」の画家として扱っていて、これは作品を見ないで流通しやすい「イメージ」だけを語っているように思えてしまった。かろうじて「文学」は要素としてなくもないが、もちろん当時のルドンの接近した文学は徹頭徹尾「反-文学」だったのだし、「黒」に関しては(分かりやすさを重視したのだろうが)誤解を招きやすいキャッチフレーズになっていたと思う。反-文学、というか近代的・科学的な興味に駆動されていたのがルドンという画家で、会場を一目見て了解されそうな事がどうしてこれだけ無視されているのだろう。


ルドンの中に幾何学的興味があることは、ほぼ反復強迫に近い形で作品の中で繰り返し提示される。要するにこの画家は球/円をひたすらに描いているのだ。リトグラフに何度も出て来る眼球や人間の頭部は、球/円を描こうとして召還されている。『エドガー・ポーに』シリーズの「I.眼は奇妙な気球のように無限に向う」、はほとんどそのまんまでしかない。「III.仮面は弔いの鐘を鳴らす」の、画面下部の仮面、上部の鐘は、その内部に正円にちかい眼や鼻の穴、鐘の断面開口部の円などを孕ませながら、仮面や鐘のフォルム自体も球を希求していることは、鐘のトーンを作るタッチが不自然に円を形成していることや仮面の引く紐が円弧の一部を形成していることからもよくわかる(他にも画面のあちこちに出る円のアナロジーは指摘するのが億劫になるほどだ)。「V.諸存在を導く息吹は球の中にもある」を見る事で、いわばこの球/円の反復はこのシリーズだけのものかと思えてくるが、もちろんそうではない。『起源』シリーズ他にも頻出する一目の怪人・巨人、ポスターにもなっていた蜘蛛がなぜか球体であること、他にも挙げていくときりがなくなる。


例えば『起源』のセイレーンの尾が異常に真ん丸にまるまっているのはなぜか。『聖アントワーヌの誘惑』の怪物たちは、なぜ必ず丸まろうとするのか。ひとつひとつ作品を見て行くとそれだけでエントリが終わってしまいそうになるが、もはやルドンはこじつけに近い形で、関係がないような主題であってもなんとか球/円を描く隙を伺っている。眼や頭部、あるいは頭蓋骨が繰り返し描かれるのは、単にそれが球/円を描くのに都合がいいからに他ならない。そこに安直に「死」のイメージや耽美趣味的なものを読むのは、要は作品を見ないで文学趣味を見ているだけになってしまう。ルドンの幾何的指向は、その生い立ちの初期の植物学への接近や建築学校の受験からも推測できるが、作品ではやや異色なところで木炭デッサンによる「絶対の探究…哲学者」(1880)に、黒い円を背景に三角形が描かれているもの、『夢の中で』シリーズ中の「賭博士」に出て来るさいころの他、窓のフレームの多用、建築空間の描写といった面にも見てとれる。が、やはり球/円に対する執拗な興味は目を引く。


この展覧会で見られるルドンの「黒」は「モノクローム=一色」ではない。簡単に言えば、ルドンの「黒」は、明らかに色彩的に扱われている。「黒」が色彩的だ、などという表現は、それこそ文学的に受け取られかねないが、要はトーンの構築が意識的に行われていて、作品が受け止めた光りの波長をコントロールして変換し、複数の波長の構築物として画面を組織しているという事になる。光りの波長の幅を大きくとればそれははっきり多色画となるが、その幅が狭ければ、今回の展覧会で見られたような作品になる。すなわち、構造としてはルドンのリトグラフやデッサンは多色画と同じなのであって、あまりにも「黒」を強調するのは危険だ。そういう意味では色のついた紙を選択して木炭などでデッサンをした作品の方が遥かに複雑なトーンの構成をしているのは当然だが、少部数とはいえ印刷されたリトグラフのものは、そのトーンの構築が限定的にならざるを得ないぶん、むしろルドンの光学性=光りの波長の構成が分かりやすいかもしれない。


ルドンのどのリトグラフやデッサンでもいい。『ゴヤ頌』シリーズ「沼の花、悲しげな人間の顔」(1885)で了解されるのは、例えば背景の複数の黒のトーンに対して水面の波を暗示するトーンがタッチの質を変えておかれており、のびるつるの先にある葉の「黒」がその中で極めて“鮮やか”に決められる。これと呼応するように実として成る人物の頭部が円弧状にコントラストを強めに置かれ、その直下にハイライトがある(このハイライトは、例えば葉の周囲の円/球にもみられるが、その面積差/ピンポイントな配置によって反射光の質が変えられている)。すなわち、明暗のグラデーションだけでなく(それももちろんあるのだが)、タッチの質を変化させることで光りの波長のバリエを作っている。このように絵画が光波を操作しているかのようなイリュージョンは、この会場では最後にあるパステル画で伺えるし、今回は見られないルドンの油彩の花と花瓶の作品などで強く印象付けられるのだが、とにかくルドンを「黒」の一言で表象させる事は誤解の誘導に近い。むしろ黒の顔料だけで多色画的な光の構築、つまり光学的作品を成り立たせるのがルドンなのだ。このルドンの光学性は主題においても球/円と同様に反復されている。


ルドンの反-文学性、今回の展示作品であれば幾何学性/光学性が総合的に了解できるのは、会場中ごろで見られた小型の油彩画で、ここではルドンはごくまっとうな風景画を描いている。その絵の具の組み立てと色彩の配置は精密で、川面の小舟や平原の樹木の描写などに、いかなる「文学性」も見出せないだろう。ことに「風景」とだけキャプションされた横24cm×縦18cmの作品は、垂直と水平に対象が分割された抽象性の高いもので、そこにいかなる文学的内面などありはしない。純粋に近代絵画としての実直な試みがされている作品群であって、なにもそこにカタログの解説に見られるような「孤独」とかを読み込む必要はないのではないか。ルドンは、いわば職業として自らの作品を成り立たせる時にポーやフローベル、マラルメの挿し絵を描いたかもしれないが、ポーやフローベルの在り方は反-文学としてのものだ。文学的な所に文学など成立しない、というのが近代文学の前提なのだとすれば、ルドンが自らの作品を社会化する時に接近したのは徹底的に近代的/反-文学的なものであることは理解しておく必要があると思う。そして、そのような社会化を意図しなかった、個人的な油彩画が、「死」とか「世紀末」とかを匂わせない抽象的な構造を持ったものであることは、そのことをより明瞭にすると思う。