DVDで「父親達の星条旗」を見た。以前も書いたが、やはりイーストウッドは本編が終わった後のスタッフロールの時間を生かせる人なのだと思う。どこかヒッチコックの「鳥」のラストシーンみたいな光りを放つ、奇妙に不安で少しだけ甘い海の俯瞰ショットで映画が終わったあと、穏やかにはじまるスタッフロールは、この映画が事実と地続きであることを示し続ける。このことは、映画の持つ政治的メッセージとかそういうこととは別に、作品と言うものの虚構性の根本みたいなところに触れるように思う。


父親達の星条旗」の印象的な要素というのは二つあって、まずは戦争シーンの音の粒立ちがある。あの、空気を切り裂く弾丸の「ぴゅっ」という音や、たたたた、という、なんだか軽い感じの機関銃の音、兵士の身体に当たったぼすっ、という鈍い音が、物凄く“皮膚に響く”のだ。僕の自宅の古いテレビで見てそうだったのだから、音響設備の整ったきちんとした劇場で見たら、ちょっと落ち着いて座っていられなかったのではないだろうか。空間的に散乱する、演出過剰でない(つまり、妙に大音響や刺激的な音色にしていない)銃弾の発射される、飛ぶ、着弾する音は、これもまた即物的な負傷者や死体の描写と一体になって、ほとんど生理的な恐怖を引き起こす。つまり、「この音(の源)に触れたら、あのような死体になるか、あのような負傷者になるのだ」ということが、画面に写っている役者というような迂回路を経ることなく、直接自分の神経に伝わってくる。弾の音を聞かせて傷口を見せる、ということの繰り返しがこの映画の基礎になる。


米軍の兵士達は目に頼ることがあまりできず、多くの事を音で判断するしかない。自分達を殺す、あるいは深く傷つける砲弾や弾丸は目に見えず、その射出音や着弾音を瞬時に判断し、自分との距離を測定して次の行動に移らなければならない。そして、これが印象的な要素の二つ目だが、彼等を狙う日本兵は、とことん不可視なのだ。カメラは日本兵をぎりぎりまで写さない。硫黄島に上陸してきた米軍を、地下のざんごうやトーチカのスリットから伺う視線だけが、ゆっくりと照準を定める機関砲の銃身の動きだけで暗示される。それまでトランプに興じ、髪を切り、仲間をからかっていた若い米軍兵の描写を積み上げておいて、それをたたた、という軽い音とともにあっけなく殺りくしてゆく、というのは、映画というかドラマの感情移入のありかたとして恐ろしく基本的な構成なのだけど、こんなベタな在り方が心底効果的だというのも、あの「音」のストイックな、切り詰めた使い方があってのことではないだろうか。


目に見えない日本兵が放つ、目に見えない銃弾と砲弾が、自分達の身体を物理的に破壊する。「父親達の星条旗」における戦争シーンの、どうしようもない生理的な感覚は、音と死の因果関係の深さに支配される。そして視覚よりは遥かに精度が低く、操作性がない(例え「聞こえた」としても、それをどう判断してどう行動に結びつければいいのかがわからない、あるいはその判断に時間がかかる)聴覚、というものへのいらだちと恐怖が、映画に対する観客の態度と二重性を描いて兵士と観客を一体化しくるみこんでいく。これは別にイーストウッドだけでなく、戦争映画一般の伝統的な要素としてあっただろうが、それにしてもここまで丁寧に作られると流石イーストウッドだといいたくなる。だが、同時に、やはりこれが映画である、という留保は、当然ながらこの映画を見るものの基盤に有り続けるだろう。どんなに銃声にぞわっとした感覚を受けても、実際に弾が飛んでくるわけでもないし、そのことが分かっているから観客も逃げ出したりしない(リュミエールの機関車の映画を見た観客が逃げ出した時代とは、いわば映像的な訓練が違っているのだ)。


だが、この映画のエンディングで、硫黄島戦の記録写真のようなものが写る時、観客は「さっき感じていたリアリティ」が、「リアリティ」に納まらない「リアル」としてあった/あることを想起しはじめる。あの音と、あの恐怖と、あの傷とあの死体は“本当にあったのだ”というナイーブでプリミティブなイメージは、なまじ穏やかな印象の映画の最後の部分を終えたあとで、奇妙な生々しさとして立上がる。映像として、戦場のシーンを実際に見ている時は「見る」ことに没入してしまっているが、「思い返す」という行為には、どうしても反省的な視点が入り込む。そして、あの戦場のシーンの恐さを、当時の報道用であろう記録写真を見ながら「思い返す」時に沸き上がる感覚が、虚構の映画の生々しさと現実の記録(とされる)写真のどこか綺麗に漂白された、しらじらしい感覚とクロスオーバーする。僕が感じるのは、例えばこの映画が今のイラクの情勢や、そこで大量に報道される映像と「現実」の関係がこの映画に投影されている、ということではなく(もちろんそういう視点がこの映画の重要な側面としてあることは事実だろうけど)、どちらかといえば「映像というものが喚起する想像力の質」というようなものだ。


映画というのは、何かを見せつづけなければいけないメディアで、「見えない事」を描くことや「見えているものとは違うものを想起させる」のは難しい。しかしイーストウッドはこの映画のかなりの部分で「見えないこと(事態)」を描こうとし、そして最後には「映画の向う側にあるものを想起させる」とううことをやろうとしていたと思える。これは「映画」そのものに対しての思考なのではないだろうか。1点、そういう事とは違う要素でひっかかったのは、葬儀屋を続けていた元兵士=「父親」が、ベッドで息子に見守られながら死ぬシーンで、あそこで描かれた情景ほどファンタジックなものはない。あそこでは「父親」を(彼の足跡を映画を通じで辿ってきたことで)理解し終えた息子(と観客)が、死ぬことが分かっている「父親」をセンチメンタルに見送るのだけど、これはほとんどSFチックなまでの虚構的なシーンだ。批判しているのではなくて、イーストウッドには、“父親の死後の感情”を経験した状態で“父親の死”を再度見送りたい、という欲望があったように思う。いわば理想的な父の看取りがこの映画の最後には行われているわけで、この部分は「父親」が何かの象徴になっているというよりは、ベタにイーストウッドの父親へのこだわりが見える。ティム・バートンの「ビッグ・フィッシュ」での父の死のシーンが思いおこされた。