殻々工房で中津由紀「fragmental」展の最終日を見てきた。パラフィン(ろう)によるレリーフ的作品だ。構造は原則的に一貫していて、小さくやや厚みがあり中央が凹んでる円、あるいは方形のパーツが細胞状に連結し、個々のフォルムを形成している。いずれも壁面にピン止めされている。小型の4作品はこのパーツが連結された強度だけで成立していて、おおよそ円や四角形など、シンプルな形態をなすが、その輪郭はあくまでパーツの連結によって成り立ち不定形だ。中型の2作品は基底材としてパネル/ガーゼが使用されている。パーツも方形なので、この2作品のアウトラインは相対的にかっちりとした四角形に近い。最も大きな作品は壁面自体を基底材としていてパーツ相互の連結が構造的に必須とはならないため、形態は不定形になり壁全体に散乱したようになる。最小単位のパーツは反復的工程で作られているが、個々に微妙に大きさや厚みがことなり、またそれぞれの輪郭も素材の性質を示すように柔らかく鈍いエッジとなっている。一部は欠けた部分もある。色彩はわずかに透明度がある白で、照明(光源)の色の影響を受けやすい。


作品の成立過程(小さなパーツを機械的に生成し、それを連ねて1つのオブジェクトを作る)が一目瞭然であり、素材がその性質を隠すことなく露になっている、という点では全作品が共通している。モダニズム的観点から見れば更に構造上も基底材を必要としない、小型の4作品が優れているだろう。簡単に言えば、中型の作品は基底材があることでよけいな部分を持ってしまっているし、壁を基底材とした大型の作品は建物に依存しているように見える。しかし、中津由紀という作家はけしてモダニズムの論理に“基づいて”作品を制作してきた作家ではない。構造的には自立している4作品も、事実上壁面を前提に作られているのは、その平面性からみて確かだろう。中津氏がかつてギャラリー山口で発表した作品(参考:id:eyck:20060412)は綿の繊維と樹脂で出来た、ほぼ完全に自立したオブジェクト(それを彫刻、と言うことはためらわれる)だった。壁面に小さな棚を設置して展示されていた前回作に比べ、見方によっては絵画的になった−というよりは、絵画の壁面・基底材への依存性を露呈させた(この作品が壁面を前提としているなら、あらゆる壁掛け絵画も当然壁面を前提にしているのだ)作品とも言えなくはない。即物的には、会場のはっきりした横長の面・四角柱を横倒しにしたような空間に反応した結果であることは確かだろう。だが、やはりこのような言い方では作品の与える感覚の「言葉へのはめ込み」にしかならない。


中津氏の今回の作品から感じられるのは、脆さ、あるいは弱さの連なりが展開させる奇妙な力だ。その力は、部分的に見ていけばいまにも崩壊しそうなものでしかない。素材は柔らかく熱にも衝撃にも弱いもので、個々のパーツは実際に欠けやゆがみを持った、指の先ほどの大きさのものであり、その構造上、大型になればなるほど基底材への依存を必要として自立できなくなる。凹むパーツはあくまで力を「受けた」結果のものであり、内部から力の発散を見せる突端する形態を持たない。受動性に関しては色彩において最も如実に見てとれる。これほど周囲の光線の影響を「受ける」作品というのも珍しいだろう。透明度のある白いパラフィンは、それ自体では色彩がない、というだけにとどまらない。受ける光線の色を単に反射するのではなく、一度自らの内部に浸透させながら、まるでそれ自身がその色を持ってしまったかのように、内部から周辺環境の光を発してゆく。僕が見たのは夜間で全面的に照明の色彩に染まっていたが、大きな開口部のある殻々工房では、例えば昼間なら外部から入り込む高原の林を透過してきた光を受けて、より複雑な表情を見せただろう。受動的でフラジャイル(こわれやすい)な明晰さが仮構されているのが、「fragmental」展における中津由紀の作品だ。にもかかわらず、その「フラジャイル」は、どこかで強さを発生させる。より自分の生理に正確な言い方をすれば、不可思議な強さが「怖さ」につながる。


この強さ=怖さは、端的に言って中津氏の作品の反復性にある。今回の作品は、ほとんど「自ら発するもの」がない。上述の前回展では、少なくとも個々の作品のフォルムには明瞭な輪郭があり、そのフォルムが作品のあり方をそれ自体で規定していた。今回の作品のフォルムはかなりの程度「たまたまこうなった」か、中型の四角形であっても「工程が最終フォルムを決めた」もので、そこに作家の意思がないとはいえないまでも、ギリギリまで弱くなっている。色彩に関しては既に書いた通りだ。この作品群に唯一自発性があるとすれば、それは「反復する」「続く」ことだけだと言っていい。ほぼ機械的な作業工程が「続き」、それが連結されることが「続く」。要するに連続してゆくことだけが抽出され、それ以外のいかなる「強さ」あるいは「イメージ」は排除された。このコンセプトは極端なもので、連続してゆくことの力以外のものを一切持たない、という強靭な意思は、作品がそれ自体の構造では持たなくなったらパネルやガーゼ(まるで壊れる自身の構造を保護する包帯のようだ)を呼び寄せ、それでも持たなくなれば壁面を浸食してゆく。それは一見壁面に依存しているようにみえて実は違う。壁面は作品に乗っ取られ犯されつつあるのだ。中津氏の作品は、言ってみれば自立することに縛られていない。不要な強さや力は断固として排除し、必要なだけの弱さに徹底して純化しながら、その連続性の先においては建築すら取り込み、自らの苗床として利用してしまう感覚がある。


中津由紀氏の作品に感じられる強さは無駄が削られた執拗な構築性にある。素材を、構造を、形態を、色彩を、考えられる限り「弱く」することには大抵の作家に持てない、潔いまでの論理が見てとれる。そして、そのように厳密に正確な「弱さ」に基づきながら、中津氏はその「連続」「反復」=「増殖」させる力のみを蒸留して見せた。モノトーンの反復的形態が、なぜか無機的な性格をもたずエモーショナルなまでの力動を発揮するのは、このソリッドな作家の意思故であり、この意思が声高な音色をもたず、むしろじっくりと時間をかけて浸透してゆくような、独自の速度を伴っているのも特徴的だと思える。