オペラシティ・アートギャラリーで「メルティング・ポイント」展。どういったらいいのだろう。出品作はどれも適度な完成度をもち、同時に適度にラフで、個別に相応の問題意識は提示していて、難解なこともなければ、バカ丸出しなほど無警戒でもない。展覧会としてコンセプトがないわけではなく、というかむしろ言われれば成る程、とうなずけるように「社会の現代的感覚」と対応している。現代美術ショーとして奇妙にまとまっていて、素通りしてしまえばそれまでかもしれない、というところが妙に苛立たしい展覧会だ。黙っているというのが賢明だろうが、このような展覧会こそが、今の「現代美術」が陥っている弱点をはっきりと示している。


ジム・ランビーの作品で最も可能性があったのは、展示会場の床を金や銀のビニールテープで覆ったインスタレーションだと思う。長方形をしている会場の形態を反復するようにテープを貼って行く様子は、フランク・ステラの、キャンバスのフレームの形態を反復するストライプで埋めたミニマル絵画のキッチュ版、という感じになっている。これはそのどぎつく悪趣味な色彩と、工業製品のビニールテープの安っぽいマテリアルで、趣味のよいオペラシティ・アートギャラリーの会場空間を異化することに成功していた。だがこれも、要するにエスタブリッシュされたギャラリー空間があってこそ、それとのコントラストで成り立っている作品だ。例えばこれを渋谷の109とかのフロアでやってもなんのインパクトも持たないし、むしろそのような商業インテリアの徹底した下品さにはかなわない。鳥の彫刻?にスプレー塗料を大量にかけてどろどろにした作品や、コラージュした絨毯のようなものを壁にかけた作品、鍵穴を等身大に拡張した作品、木の枝に糸を巻いた作品などは安易で「いかにも現代美術」な概念(境界性とかコミュニケーションとか現代社会批判とかまぁそんなの)が適度に今風にパッケージされたように見えてしまう。


渋谷清道という人の作品を見たのは前回の六本木クロッシング展に続いて2度目で(参考:id:eyck:20040319)、その時は本人の意図が十全に発揮された展示ではないんだろうな、という感触がしていたのだが、今回は流石にそのようなことはなく、かなりの程度作家のイメージが実現していたと思う。その結果感じられたのは、六本木クロッシングの時見られた「繊細に見えて実はラフ」なところは、けして展覧会のコンディションの問題ではなく渋谷氏本人の資質でもあったのだな、ということだ。紙をスピログラフ(円型にくり抜かれた固定定規に穴のあいた可動定規をはめ込んで、穴にボールペン先をはめて回転させるとできる幾何学模様)状に切り取って、囲った会場の天井に置き水面を海中から見ているように意識させる(人魚姫の物語りをイメージするような説明がある)という、ストーリー仕立ての作品で、センチメンタルな児童性とノスタルジーに依存した退行的作品、と言ってしまえばそれまでではある。僕はこの作品の「切り絵遊び」的なラフさは嫌いではないのだが、それを「現代美術ショー」としてでっち上げてしまうところ(これはむしろ「業界」では渋谷氏の能力として評価されている点だろう)がしょうもない、と思うし、これならむしろ嫌味なほど完成度をあげるしかなかったのではないか(メゾン・エルメスのスー・ドーホー展くらいに)。


エルネスト・ネトの、ポリエチレンのライラク・チュールをテンション高く2重に張ってところどころチューブで繋ぎ、これまたところどころ空いた穴に頭をくぐらせて、いわば仮設のランドスケープを見せるような作品は、今回の展示で一番洗練されたものだ。一目でわかる単純な構造が新鮮な視覚を喚起するという手腕は水準を超えている。これならギャラリーの外へ出ても、例えば幼稚園とかで設置しても作品として成り立つし、実際子供が一番エンジョイできそうな感じがする。そういう点ではやや子供っぽい作品だけど、この作家が他の二人より信用できるのは、扱っている素材に対するこだわり、というか理解のありようで、ぶっちゃけこの作家は、ポリエチレンのライラク・チュールというものを展開させていくことにしか興味はなくて、作品の形態はそのバリエーションの一部なのだ。僕は体験型インスタレーションというものにはやや偏見があるのだけど、この作品が面白いのは、たぶんカップルで楽しんだりするよりは、偶然その場にいあわせた赤の他人が同時に「穴に頭を突っ込んでいる」時で、ふと目があってしまったりすると、ポリエチレンの皮膜の風景の中に見ず知らずの他人の頭がにょっきり突き出ているのが見えてしまう(知り合いどうしだとこのインパクトは下がるのではないだろうか)。他人の「生首」が変に見えるのと同時に、自分も相手方には「へんな生首」に見えているだろうな、というのが(相互に)了解できてしまうところが居心地わるく、他人の身体も自己の身体イメージも異化されてくる。ただし、あのドローイングは蛇足だったように思う。


「メルティング・ポイント」展は、全体に(出品作から展覧会のコンセプトから展示そのものから)「正解」を想定し過ぎている。最も良いと思えたエルネスト・ネトにしても、「期待されているのはこのくらいの水準」という、漠然としたフレームが見えてしまう。適度に手慣れた展示技術があり、なんとなく新鮮な感じがする素材(ビニールテープとか切り紙とかポリエチレンとか)を扱い、漠然と通りの良い解釈ができて、全員に退屈とは言われないような「体験型」作品を作る、それなりに使い勝手のいい作家をバランスよく集めてみました、という優等生的展覧会なのだけど、この「誰からも文句を言われない程度」という在り方が、ものすごい閉塞感を産んでいる。一定水準の作家が、一定水準の企画によって集められ、一定水準の観客に、一定水準の理解をもたらし、一定水準は楽しんでもらい、一定水準の問題提起もだしてもらって、一定水準で全員が「合意」してしまう。そこで先取りされている一定水準とはなんなのか?観客はなぜその「一定水準」であることを先験的に期待されてしまうのか。オペラシティ・アートギャラリーに来る客は、皆品がよくてこの程度の問題意識は抵抗なく理解できて「楽しみながら考えてもらえる」オーディエンスであることが事前に決まっているのか。自分がこういう枠組みにぴったりはめられてしまう、そこで生理的な鬱陶しさが湧く。


「真の解決などはないが、我々は可能な範囲で努力と思考を積み重ねており、次回はよりよい物を目指してゆくだろう」という、どこにも悪い点のない、しかし絶望的な空間。もちろん、今行われている現代美術の展覧会など、おおよそ全てがそのような引き延ばされた死みたいな状況になっているのだし、ヴェネチアドクメンタの様子を伝え聞くにつけ、それは世界的なのだろうことは理解できる。なにもわざわざ「メルティング・ポイント」展を取り上げてケチをつけるのはアンフェアなのかもしれない。だが、こういった事を続けていくと、現代美術というのはゾンビ化するしかなくなるだろう(もうなってるのだから、この展覧会は決定的に正しい在り方をしているのだ、という意見があるなら、もちろんそれはそれで見識というものだ)。