以前テレビのバラエティ番組(「ぷっすま」だ)で、出されたお題、例えば「キティちゃん」とか「ドラえもん」とか「ライオン」とか「象」とかを、タレント達が思い出しながら絵に描いてみる、というのがあった。そういった誰もが簡単にイメージを思い浮かべることができるものを実際に描くと、皆上手くいかない。出来上がった妙ちくりんなドラえもんやライオンの絵を実物と比較してその食い違いを笑う、というもので、ちょっと面白かった。


こういう時に最初に誰でも有効性を思い付くのは記号化で、ライオンを自然主義的に描くより「ライオンぽく見える記号」(キャラクター)を描けばいいわけだけど、話はそう簡単では無い。例えば、単なる「猫」というお題であればキャラクター化も可能だけど「イリオモテヤマネコ」みたいな、漠然とイメージはあるけど「猫のキャラクター」を描くだけではだめそうな動物では通用しない。更にこの番組の面白かった点は、動物とかは、動物園でロケしてみせるところだ。本物に背を向けて絵を描き、正解は後ろ!とか言って振り返ると、記号や写真のライオンではなく「生の」ライオンがいる。こうなってくると「想像で描かれたライオン」と「皆がイメージするライオン」と「本物の、個体のライオン」が全部ずれてしまっていて、「正解」の着地点が上手くみつけられず、オチが妙な感じになってしまう。この着地が決まらない感じ自体が番組の魅力を構成していた。


ライオンらしいライオンを記号的に描いた(いや、本当にライオンだったかどうかは忘れたけど)タレント(ユースケ・サンタマリアとかは記号化が上手かった)が「ライオンてこんなんだったっけ?」と“実物”を前に言い始める。つまり単に記号的キャラを描いてもだめなのだ。複数のタレントが似た程度の「キャラ」を描いたら、決め手は実物の生物学的特徴(たてがみは何処からどのように生えているか?etc.)になってくるから、記号=キャラクターと現実に生きている「このライオン」が、相当に、というかほとんど一致しない、ということが露出し、そのイメージの壊れ方が笑いを誘う(ここまでやっておいてしかし一種のクイズであるこの企画においては「正解」はやっぱり「みんなが漠然と持っている記号的イメージ」になる。実際、正解/不正解のジャッジは通りすがりの素人に「どっちがライオンらしいか」と質問して決めさせている)。


とりあえず、動物みたいに実態のあるもののキャラクター化は、かなりあいまいでもなんとか「ライオンぽく」見ることが可能なのだけど、「ドラえもん」みたいに元が記号の場合は、相当厳密にその記号を再現しないとかえって難しくなる(似なくなる)。目の位置がすこし違ったり、プロポーションが少しずれてたりすると、もう「ドラえもん」らしくない、ということになってしまう。個々のパーツの整合性とかより、むしろ、そういった全体のバランスが“らしさ”を構成する(記号というのは軽く見られることが多いが、むしろ一度定着した記号はとても強固で揺るがしがたいものであり、それは場合によっては「シンボル」になって支配的な力も持つだろう)。


ここで「共同体が共有するイメージ」を批判し、記号の客体性の現れ/客体の記号化における立ち上がり、なんてものを称揚する、などという話であれば簡単なのだけど、深夜のバラエティ番組というのはもう少し複雑に出来ている。この手のプログラムの基本は、「正解」する(素人のジャッジする「イメージ」に近付ける)ことではなくて、いかにそこから外れるか=“おいしい”失敗をして(ボケて)笑いをとるかだ。ただ、これが極端になってずれ幅大会になってしまい、わざと変な絵を描きだしたとたん、このコーナーは退屈になって、実際その後あまりみかけない。


つまり、このずれ幅の生成が「芸」(定型)になってしまっては、いかに大きなギャップを作ろうとそれはパターンの反復になる。コーナーが始まった頃の、皆がそれなりに一生懸命に、各個人が脳裏に描いたイメージ、つまり細部が曖昧だろうがなんだろうが、とりあえずは「知っている」=思い描けるイメージがあるものが、しかしいざ実際の絵にすると破綻してしまうところ、いわば単純なはずのイメージが実体化されようとしたとたん崩れてしまう、その崩れ方を見せていた頃が刺激的だった。


なぜ知ってるはずのイメージが崩れるのだろう。それはまず、記憶が曖昧で知ってるはずのイメージを実は知らなかった、ということだろう。ライオンにはたてがみがあるのを誰もが知っているし、それをなんとなくイメージすることもできるが、しかしその「たてがみ」とは実際にはどうゆうもので、どのようについているか?となるととたんにあやふやになる。もう一つは「絵の技術」で、脳裏に描いたものを手が描けるわけではない、ということだ。そしてこの場合必要な「上手さ」とは、自然主義的なデッサン力とはちがう。なにしろ「見て描く」のではない。「知ってるはずのものを見ないで描く」のだ。


多分、「知ってるはずのイメージ」を線に分解して再配置する能力、ほとんど工学的というか機械的な能力が問われるのがこの「テスト」の“基礎学力”だ。もしアーティストがこの番組に出て「勝つ」としたら、この「知ってるはずのイメージの線への分解と再構築」をこなした後、それを必要に応じて組み替え、怪物を生み出してしまうことだろう。かなり似てるけど少しちがう、といったあたりに落とし込んで“空気を読んだ”芸を見せるようなら、その人はアーティストというよりは文字通りの芸人だ。しかし、これは相当難しい。やはり「下手うま」みたいなのが一番効率的で、だとすると今「アーティスト」を名乗っている人のけっこうな部分は「テレビに出ない/出られない芸人」に近いかもしれない。