10/7の日曜日には四谷アートステュディウムの「エクスペリメントショー」を見に行っていた。予定では出だしの北川裕二氏のパフォーマンス?を見た後抜け出して、平倉圭氏のプログラムが始まる頃に戻ってこようと思っていたのだが、なんだかずるずる見続けてしまい、結局最後の三輪真弘氏のプログラムを除いた他ものは見てしまった。けして引きずり込まれるほど魅力的だったわけではない。というか“演劇的”盛り上がりは確実に回避したいという情熱はこのショーの一貫した態度だったと思う(会場の体育館を囲むように行われていた地元のお祭りの喧噪に、四谷アートステュディウムの人々はじっと耐えているかのようだった)。


そんな中で僕は個々の「実験」を見ていて、「これはどういうものなのだろう」と考えていたら30分、1時間と過ぎてしまい結果として周囲がすっかり暗くなるまで居てしまった。個々の「実験」はけっこう面白いものから意図の掴めないもの、つまんないなぁ、と思うものまでいろいろあったのだけど、小学校の体育館を借りて、雑駁な空間でいくつかのラフな試みが重なったりお互いに干渉したりしながらばらばらと進行してゆき、そのつらなりが複数の思考のネットワークを感じさせていくあたりが、全体として岡崎乾二郎氏の作品みたいじゃないか、と思った。そこでこのショーの可能性も限界も両方見えたように思う。


四谷の駅を降りたらそこらじゅうが当日開催のお祭り会場で、なんだか沖縄民謡のパレードみたいなのが太鼓の大きな音を立てていた。この音はしばらくすると「エクスペリメントショー」の会場に侵入してきた。僕が現場に行った2時には北川氏のパフォーマンス(「実験」というべきか)は既に開始されており、草刈思朗氏の「実験」が始まろうとしていた。草刈氏が口上を長々述べた後「実験」を開始したあたりで北川氏のパフォーマンスが発する奇声と、これまたすでに始まっていた、毛利悠子氏の「実験」を実行しているパソコンから聞こえる音がクロスオーバーしている事に気付いた。


小学校の体育館と言う場所も含めて、この段階で基礎的な「エクスペリメントショー」の生み出す空間というのははっきり組み上がっていたのだと思う。そのような気付きに時間がかかったのは、この「ショー」は、少なくとも僕のような外部から来た門外漢には、「見方」を学習させるようなものだったからだろう。個別の「実験」はパンフレットに書かれている通り、各演者の設定したある一定のシンタックスに沿って行われる。そのように仮構されたシンタックスが、現実の様々な要素を孕む場に展開された時、そのシンタックスと場は相互にどう影響しあい、どのような出来事を発生させるのか(あるいは発生させないのか)を見定めるのがこのショーの眼目と言っていい。


だから、個別の実験が、設定された通りになんの屈折もなく「ゴール」してしまうことは、このショーの可能性においてけして真の「成功」ではない。むしろ、展開された場において場との相互作用をおこさなかったとしたら「失敗」なのだ。仮構されたシンタックス=仮説は、基本的に現実(空間)を変容させることを目的として遂行される。『くりかえせば実験とは革命の(その可能性を確保する)条件である』(「エクスペリメントショー」パンフレット記載の岡崎乾二郎氏のテキストから)。もちろん、現実の条件に圧倒されて現実に作用することができず、仮説だけが崩れてしまえばそれは「失敗」かもしれないが、少なくともそのような形で「現実の条件」そのものを露呈させることができたのであればそれは「意味ある失敗」にはなりうる。


例えば恐らく今回のショーで大失敗、と多くの人が思うかもしれない石岡良治氏のプレゼンテーションは、15分という短い時間に多くの言葉を突っ込もうとして破綻したわけだが、概念を言葉で叙述しようとすると、いわゆる「美術的パフォーマンス」より膨大な時間が必要になってしまうこと、結果時間の流れ方が、パフォーマンスと一種の「講義」ではまったく違ってしまうことを露呈させたという意味では「面白い失敗」にはなっていただろう(とんえるずの「細かすぎて伝わらないものまね選手権」が、芸人それ自体の芸というよりは審査員の「落とし」で笑いを生成するように、石岡氏のプレゼンに無理矢理ピリオドを打って「失敗」させた進行の判断にこそこの面白さを産出させたポイントはあったかもしれないが)。反対に、連続性というフレームが引き起こす詐術/詐術が切り出す連続性というフレームの仮構性を文字通りショーとして過不足なく演じてみせた岡崎乾二郎氏のパフォーマンスは、「ショー」として出来過ぎていて「実験」としてはかなりの程度失敗に近い。過去、練馬区立美術館でも思ったのだけど(参考:id:eyck:20050324)岡崎氏はこういう試みは下手なのかもしれない。以下、個別の「実験」の感想を書いておく。


●北川裕二氏の、体育館の壁に張った2枚の紙に、アイマスクをした北川氏(だと思う。未確認)が両手に描画材をもって同時に異なる図を描く(また、描いていない時はイスに座り時折奇声を発する)パフォーマンスは、期待した程面白くはなかった。理由は簡単で、描かれた図がまったく淡白で、少なくとも描画の痕跡として何か可能性を拾えるものではなかったからだ。別に「面白い絵」を描く必要はなかったかもしれないが、少なくとも目隠しをして「両手に描画材をもって同時に異なる図を描く」というシステムが、どのように「目を開けて片手に描画材をもって一時に一つの図を描く」のと差異が発生するのかが検証できる程度には“たくさん描かれる”必要があったと思う。あれで終えていたのでは、たんに「ちょっとやってみた」だけでしかない。恐らく、北川氏は単に描くのでは無く、自身の内的状況を図りながら描く、という回路を設定していたのだろうけど、結果、心身のコンディションにばかり集中してしまったのではないか。これは今回の「エクスペリメントショー」で行われた他の項目でもいくつか見られた特徴なのだけど、仮説をソフトとして走らせる時のハードウエアとして身体を使うことが多く、カラダばかりが全面化して、大袈裟にいえば身体-否定神学とも言える状況が多くの場面で見られたように思う。もうちょっと普通に言えば、実験が上手くいくもいかないも身体の思し召し、という感じがあった。


●毛利悠子氏は、2台のパソコンで音声発生(発声?)ソフトと音声認識ソフトを動作させ、それを循環的に連鎖させて結果をプリンターで記述/出力していた。音声認識ソフトは外部の音声も認識するようで、プリンターの記述では出力結果が累積的に増えていっていることが確認できる。これは僕にはとても魅力的な作品に思えた。内在する循環システムに外部が侵入してどんどんアウトプットが巨大化するのも面白いが、一番単純な理由として、合成された音声がチャーミングなサウンドだったことが大きい。この、女性を模したかんだかい声が、様々な実験が行われている会場に散発的に響く様子は、どことなく場の基底となるトーンを形成するのに役立っていたと思う。なんだかんだ言って、「エクスペリメントショー」は基本的に「作品」であったと思うし、そうあるべきだとおもうのだが、だとしたらそのサーフェイスが魅力的であることは必要な筈だ(「きれい」である必要はまったくないが)。途中で他の演目の邪魔になるからと、合成音声が絞られてしまったのが残念だが、そういう事も含めて、現実(というか毛利の作品においては「環境」と言うべきかもしれないが)との相互関係がとてもクリアに見える内容だったと思う。


●草刈思朗氏は、かつてガリレオが時間を図るのに脈拍を使っていたことなどを説明したあと、協力者と二人で互いに脈を図り、そのシンクロ率を視覚化してプロジェクターで投影していた。「脈を互いに図るといずれ同期してくる」という仮定を立てていたようだけど、結果は全体に逆になった、と苦笑いしていた(僕自身は「逆」というよりは、有為な関係性はない、と感じた)。面白かったかといえばあまり面白くなかったが、ショー全体の中でこの「失敗」が果たした役割は大きかったのではないか。少なくとも僕はこの段階でエクスペリメントショーが「見せ物」としてのショー、成功が単純なカタルシスを産むような「ショー」ではないことが理解できた。当たり前だと言う人がいるなら、その人はいわば四谷アートステュディウム慣れしすぎだ。例えばこのショーは地元のお祭りと同時に行われていて、公的補助も受けている。小学校の体育館を借りていることも含めて、まったくこういった内容に素養のない一般の人が来る可能性がある(そういう意味では別にレベルを下げる必要もないが、もう少し「親切心」はあってもよかったかもしれない)。だとすれば、草刈氏の少々長過ぎた前口上も有意義ではあった筈だ。


●坂川弘太氏は、肩に天秤棒を担いでその両端に金属缶をぶら下げ、回転させて缶の中の粘性の高い半流動体(小麦粉を練ったもの?)が飛び散ったり、徐々に垂れ下がって来たりする様子を見せていた。これはちょっと面白かった。重力と遠心力が奇妙などろりとした物質を通じて可視化されていて、単純と言えば単純なのだけど、そのすっとぼけたパフォーマンス(おかしな金魚売りみたいな作家がのっそり体育館の隅に現れたと思ったら、なんだかキモチワルイべたべたしたものを黙々と飛び散らせている)の有り様がどうにもキュートだ。ちょっとキャラクター先行というか「人徳」だけで作品を支えているようなところがあってズルイといえば最高にズルイのだけど、ひっそり終わったあとタオルで情けなく散乱した(ダメなスペルマみたいだ)ものを拭っているパフォーマーを見ていたら笑いが込み上げて来た。その背中が記憶に刻まれてしまった。(以降続く)