古代から中世にかけての寺院というのは、いわば当時の人々=各端末に宗教というOSをインストールするためのハードウエア/ソフトウエアみたいなものだったのだろう。法隆寺は、古代の土俗的なOSしかもちあわせていなかった日本人に、仏教という巨大かつ精密な最新OSを上書きするための、最初とは言わないまでもかなり初期のシステムといって間違いがない。細かな地域領主の脆弱な連合体であった極東の群島を、大和朝廷という統一された構造として組み立て直すために、ハイ・テクノロジー先進国である中国から輸入されてきた、まったく馴染みのない人工的なシステムが仏教で、それは寺というハードウエアがなければ走らないプログラムだったわけだ。世界遺産があるとは思えないほど静かで人気のない朝の斑鳩町を歩いた先にある西院伽藍を見ていると、立体的に各パーツが連結された回路のように感じられた。


法隆寺の伽藍を構成する各構築物とそこに納められた仏像には、乾いたテクスチャーと、親密な情緒の欠けた造形があるように思う。建物の表面は他の平安期以降の寺院にはないような明るさを覚えるグレーで、木というよりは骨のように軽みのある硬質さを感じさせる。このサーフェイスこそが、まず法隆寺の伽藍を微妙に見なれないものに思わせる。この印象、拝観者の視点から距離を感じさせ、どんなに近付いても離れていくような、ほとんどジャコメッティ的と言える視覚的効果は、主に金堂と五重塔の垂直性に基づくと思える。五重塔は、例えば東寺や興福寺の50mを超えるものにくらべれば小さい(31.5mとされている)。しかし、その、層を重ねるごとに屋根の大きさを小さくしてゆくシルエットは、実際の高さよりも上昇感覚を強く発生させる。金堂は二重構造だが上層には機能がなく、いわば高くするためだけに作られたものだ。そして、矛盾するようだが、これらの建物には同時に水平方向への力も感じる。五重塔の、末広がりのフォルムは前述の上昇感覚と同時に左右へのひっぱり力も発生させる。金堂の強い正面性と1層部分の繰り返される屋根も同様だ。要するに、縦方向への力と横方向への力が緊張感をもって拮抗していて、どこか建築物を「宙にうかせている」ような、反重力的な印象を与えている。


このような、浮遊するような垂直性は、後の東大寺金堂のようなバロック的なメガスケール寺院のもたらす「高さ」、権威的高圧性とはまったく質を異にする。法隆寺には、極めてシンプルな、寺院の機能を純粋に展開していったような無駄のなさを覚える。そこには国家的威信とか俗世的装飾があまり見えない。むしろ仏教という超高々度な抽象的概念をそのまま動作させる構造をクリアに指し示すことこそが、当時もっとも斬新でアバンギャルドな行為であったのだろう。そういう意味では、法隆寺の建築物は、かなりの程度洗練されている。創建当時の若草伽藍が焼失した後再建されたというのはこの洗練の程度を見てもうなずける(余談だが、僕は厩戸王子の存在を疑問視する最近の説に信ぴょう性を感じる)。法隆寺は世界最古の木造建築群とはいえ、やはりかなり試行錯誤が繰り返され、学習が進行した後の建築物だと見ていい。にもかかわらず、それらは今だ「日本化」はされていない。中門から連続する回廊、大講堂といった法隆寺の中核に覚える一種の数理的感覚は、むしろブルネレスキの捨て子養育院の回廊に囲まれた空間を彷佛とさせる。あるいは垂直と水平の関係から浮遊性を与えるという意味では、サン・ロレンツォ教会内部に近いかもしれない。


その点で言えば、金堂内部の釈迦三尊像を始めとする仏像群、あるいは宝物殿にある百済観音等は、ほとんど創建当時の、つまり、外部のものを導入しはじめたばかりの頃の衝撃が明瞭に感じられる。良くいわれる、法隆寺仏像群の「異様さ」、とくにその顔の造形や異常に縦に引き延ばされた形態、衣の襞の表現の特種さは、神秘性とか深い謎などといったこととは関係がない。単純に言って、それらは技術的に未熟で、暴言を承知で言うなら「下手」なのだ。労力が割かれ、未熟なりに当時の最高のものが集約された釈迦三尊像百済観音などではやや見えにくいが、周囲の四天王立像、奈良国立博物館で間近に見られた多聞天立像を見れば、その稚拙さははっきりと看取される。だが、僕はこの未熟さにこそ「思想の本来的な外部性」(柄谷行人)が刻まれているように思える。これが平安期に移行し、平等院で見ることができた定朝の阿弥陀如来座像になると、工芸的な完成度が高まり滑らかに美しい形態が実現するのだが、いわばそこには「外来思想」しか見ることができない。


法隆寺では、システムとしての仏教がそのまま理念的な水準での「建築」=Buildingではないarchitectureとして組み立てられている。故に法隆寺は半ばコンピューター的architectureであるかのように見える。ただし、内蔵される仏像群には、この国に先進的なシステムを導入するための行程がかいま見える。その、大陸風と言われる奇妙な有り様は、例えればかつてのPC98シリーズ(僕が所有していたのは下位の8801というホビーユースの機体だったが)、およびそこで走らせていたBasic/日本語Basicのコマンドに近い。けしてそのままでは日本で受け入れられるはずがないものを、どうにか動作しかつ受容させるために形成された、特殊で、かつやがては消えていくようなarchitecture。事実、以降作られる仏像や寺院は、その理念というよりうは、主にビジュアルの部分だけが磨かれ、グラフィカルに親和性の高さを強調してゆくことになるだろう。このようなGUI(グラフィック・ユーザー・インターフェース)の進化は、この国での仏教を、その本来的な峻烈さを抜きにした存在にしてゆき、唯一のOSではなく、複数のOSが場面に合わせて切り替えられるマルチブートの1つにすることになる。法隆寺にあった可能性は、PC98シリーズと同じように消えた、と言えばミスリードと言われるだろうか。