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荒川修作+マドリンギンズのここ10年程の作品(僕は荒川修作+マドリンギンズを芸術家としての可能性において見てみたいのであえて「作品」というけど)は、60年代コンセプチュアル・アートの突然変異体であることは改めて確認しておきたい。彼等はけして単独で存在してはいない。特定の時代の美術状況の中から出て来ており、周囲との連続性をもっている。しかしその時代・その場所で行われていた展開を(積極的に)誤用し、反動させることで、この連続性から逸脱してしまったのではないか。結局、それが彼等の美術家としての可能性を持続させることに繋がっている。コンセプチュアル・アートの主要な手法であるインストラクション(指示)に基づく美術が排除しようとした、モノ/物質性を逆に再導入し、「想像力の革命」を即物的に履行するという間違いを侵したのが荒川修作+マドリンギンズだ。この「間違い」は、モノの側から想像力に働きかける時に可能性を発揮するだろう。が、一度モノを消去したコンセプチュアル・アートから派生してきた荒川修作+マドリンギンズには、モノの操作能力または唯物的な素材に対する興味がない。
荒川修作+マドリンギンズの、いわゆる「建築する身体」という概念に基づく作品のうち、現在部分的ではあれ実現している3つ、すなわち「奈義の竜安寺(1994)」、「養老天命反転地(1995)」、「三鷹天命反転住宅(2005)」はインストラクションを“本当に実行するための”ツールといえる。例えば「養老天命反転地」には、設置されている個々の構造物に関して「使用法」が明示されている。「楕円形のフィールド」では、
「白昼の混乱地帯」の中では常に、ひとであるより肉体であるよう努めること。
何かを決めるために、あるいは以前決めたよりもより繊細に、またはより大胆に(あるいはその両方に)なるために、「もののあわれ変容器」を使うこと。
「地霊」の中では、地図上の約束を忘れること。
「宿命の家」や「降り立つ場の群れ」と呼ばれている廃墟では、まるで異星人であるかのようにさまようこと。
「切り閉じの間」を通る時は、夢遊病者のように両腕を前へ突き出し、ゆっくりと歩くこと。
「陥入膜の径」を通り抜けたり回ったりする時は、目を閉じること。
「運動路」の中や外では動作を繰り返し、そのうちの1度はゆっくり行うこと。
「想像のへそ」の中や外では、後ろ向きに歩くこと。(「養老天命反転地」楕円形のフィールド 使用法から)
といった具合だ。こういったテキストは、例えばオノ・ヨーコの「Grapefruit Juice」に近似している。これも以下に引用しておく。
雲を数えなさい
雲に名前をつけなさい
絵を切り刻み
風にくれてやりなさい
地下水の流れる音を聴きなさい
世界中のすべての時計を二秒ずつ早めなさい
誰にも気づかれないように
録音しなさい
石が年をとっていく音を
道を開けなさい。
風のために。
立ちつくしなさい。
夕暮れの光の中に
あなたが透明になってしまうまで。
じゃなければ あなたが眠りに落ちてしまうまで。 (オノ・ヨーコ「Grapefruit Juice」から)
1964年にオノ・ヨーコが限定500部で出したこの詩集は、1993年にリメイクされているが、その骨格は初版当時と変らないとみなせる。詩集とはいえ、これはもちろんフルクサスに参加していたオノ・ヨーコが、ジョージ・マチューナスらジョン・ケージの影響を受けたアーティストたちの「インストラクション(指示)」による表現活動との影響関係の中で作ったものだ。コンセプチュアル・アーティストたちは、ジョン・ケージの指令・指示による作品、例えば「4分33秒」などを元に、様々なインストラクション・アートを手がけた。それは単に詩として読まれる事だけを目的としいていたわけではなく、あくまで具体的な指示としてあった。ヨーコも「私は二度と退屈な作品を作らない」というセンテンスを学生にギャラリーの壁一面に書かせる、といった作品を実行しているし、ジョージ・マチューナスはうがいをしろ、せきをしろ、痰を吐け、といった指示を受けて右欄のマスを埋めて楽譜にするという作品を製作している。他にもルシェの、自宅のあるロスから故郷オクラホマまでのR40沿いの26のガソリンスタンドを順に撮るといった「26のガソリンスタンド」、あるいは河原温の機械的に製作当日の日付けが描かれた絵画の製作も、一種の指示=ルールと、その実行に基づく作品だと言っていいだろう。
1950年代から60年代にアメリカでヘゲモニーを握った抽象表現主義に続いて現れたミニマリズムは、グリーンバーグ的モダニズムの還元主義を意図的にそのまま真に受け、anti-compositional/anti-relational=構成・構図の否定(作家の内的思考の否定) を遂行した結果、ジャッドに見られる反復される立体のようなオブジェクトに収斂した。構成・構図を排除した後に物が浮上した、この「物」を排除し、モダニズム論理の最終的な形態を目指したのがコンセプチュアル・アートだと言える。ここではworkにおけるideaが重視され、非物質化、概念化が進行した。言ってみれば、物を作る事への軽蔑があった。スタデオ(工房・アトリエ)からスタディ(書斎)へといった美術家の変化は、クラフトの外在化によって美術と言う領域の完璧な確定を目指している。ここでは主として像が描ける概念=絵画的イメージ(ex.三角形・四角形)よりも、像が描けない概念=非絵画的イメージ(ex.千角形)が追求された。なぜならば、絵画的イメージが描けるもの=既存のイメージには、未知の新しいビジョンがないからだ。「心の中に思い浮かべたものは、いくら観察しても既知のものしかない」というヴィトゲンシュタインのメッセージは、コンセプチュアル・アートの理念的な到達地点を指している。
なぜ像が描けない概念=未知の新しいビジョンが追求されたのかと言えば、コンセプチュアル・アートにおいては恐らくロシア・アバンギャルドの「想像力の革命」の継承が目論まれていたからだろう。マヤコフスキー、リシツキー、マレーヴィッチといったロシア・アバンギャルドの内容の詳細にはここでは触れないが、1960年代の美術の底流に流れていたコミュニズムの理念と戦後戦勝国アメリカで展開したモダニズム美術の論理が交差した、その極点にコンセプチュアル・アートがあったと見ていい。トロツキストだったグリーンバーグの保守化に対する反発もあっただろうが、しかし、このコンセプチュアル・アートの在り方は、恐らくモダニズムというものの、必然的な帰結だったと言っていいのだろう。とにかく、指示(インストラクション)による「想像力の革命」というベースラインは、そのまま荒川修作+マドリンギンズのベースとなっている。コンセプチュアル・アートにおける詩・詩人の関与まで含めて言えば、詩人マドリンギンズの存在はこのユニットにおいて必然であることも了解できるし、1961年に渡米した荒川修作が、決定的に同時代のコンセプチュアル・アートの影響を受け、それを土台に活動していることは一目瞭然ではある。だが、一度「物」を排除し、「物づくり」を排除/軽蔑したコンセプチュアル・アートを通過した荒川修作+マドリンギンズは、ある段階でこの論理を逆行させ、恐ろしく即物的な「ものづくり」=建築へと移行しはじめた。論理的にありえない反動だが、この「間違い」こそが彼等の特殊性を、そして同時に弱点を形成する(以下続く)。