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自分の感情や感覚が、別段内面の深みとかとはまったく関係なく、システムによって構成されていると認識してみると、なんか可笑しい。それこそ一種の救いになる。先のエントリで、例えば後半の自分と父や長男に対する気持ちが、要するに先行モデル-現行モデル-後続モデルというお話(文字通り「物語化」だ)になっているのを見ると、ベタなパターンの中に自分がいることが見てとれる。これってようするに、オカネの運動(G-W-G+Δg)と同一じゃないか、というのが先人の教えというもので、まぁ「神聖家族」とか言い出すと大袈裟にすぎるのだけど、ぶっちゃけ図式そのものではある。このストーリーが、洋服のモデルチェンジと似ているどころではない、同じなのだと気づくことで、何かが変化するわけではない(例えばこういう構造から外に出られるわけではない)し、ましてや感情や感覚が消えてなくなるわけではない。単なる認識にすぎない。だが、少なくとも「軽く」なることはできる。自分は自分の在り方を、過剰な先入観でしばりつける必要もなくなるし、ましてや長男の在り方を規定しようとする欲望も警戒できる。ことほどさように衰弱がもたらす考えというのは自由を制限する、そのことに思いいたった。
新生児というのはみていると本当に“原形質”にすごく近いのだなぁ、とおもう。生成し、膨張し、破裂して溢れ出してきたのが彼だ。彼には社会的外骨格がないので常に周囲に接続し、周囲を駆動させる。自身はその「力」の純粋な通り道になる。母体は的確にも彼を「ポンプ」と呼んでいるけれども、スタンドアローンで閉じていなくて全面的に防備のないこのポンプは、周囲の閉じた停止体にことごとく接続しては運動を呼び起こす。存在それ自体が未完結で、取り囲む世界のなかで「ギャップ」そのものとしてあり、このギャップが経済の、権力関係の、言葉の、物質の、認識の、精神の流れを形成してゆく。彼は弱くて周囲に依存しているのではまったくない。むしろ、成長が死滅し、確固に閉鎖して運動を停止し、単純きわまりないパターンの反復に陥った、いわゆる「大人」やその大人の物音一つしない墓地のような制度状況に一気に落差を形成し、死滅した筈のスポーツ、終わる事のない複数のスポーツを一挙に展開させる、強力な力能、形態の不定なエンジンとして-圧倒的な強さとしてある。新生児のいる状況こそ「器官なき身体」というものだ。
児童虐待とか新生児遺棄というのは、けして無力な赤ん坊を強き大人が攻撃しているのではない。健全に動作できなくなった凝固体、つまり弱い大人が、強力な差異性能/ポテンシャルを押さえ込む鎧のないむき出しな新生児の「力」をうけとることができなくて、たまらず新生児の「力」を押さえ込み、または「力」を放り投げてしまうことなのだ。ラカンの根本的な間違いというのは、ここにある。つまり、結局ラカンも新生児を「弱き者」として捉えている。新生児の静止せず常に周囲に連結しては周囲を可動にするこの能力を「自立体になれない弱さ」として把握する。この「弱さ」が鏡像化などを通じて「安定」を確保してゆくというプロセスを成長段階的に体系化したのがラカンの精神分析理論であって、構造主義の限界というのがこうもあからさまになっているのを見ると驚きがわき出す(そういう意味では、まだメルロー-ポンティの言う事の部分的な断片のほうが、より実際の状況に近いところがあるかもしれない。あくまで断片だけど)。
Deleuze & Guattariをまんま流用しただけなのだけど、とにかく今年前半に母体の妊娠が判明してからその「膨張」を日々眺め、50時間におよぶ長い陣痛につきあって病院に二泊三日してしまい、(一般に初産では入院してから6-8時間で生まれる)そこから分娩に立ち会って新生児がへその尾を切断され一気に肺呼吸に転換した叫びを目前で聞き、そこから1ヶ月弱彼の様子を見ていたら、もう全面的に「アンチ・オイディプス」は妥当というか、現実そのもののような気がしてきた。昔はじめてあの分厚い邦訳を読んだときは何を言っているのかさっぱりわからず、こんな抽象的な話しもあったもんじゃない、と考えていたが、今新生児の隣で文庫になった「アンチ・オイディプス」を斜読みすると、おおよそ具象というか、スーパーリアリズムとかに近いまでの生な描写が行われているのだ、と感じられる。人は近代社会的な構造の中で自立という名の静止体-閉鎖体、つまり「大人」になってしまう-弱体化してしまうから、新たな認識によって、理念的な水準での新生児=完結せず、絶えまなく周囲に連結し、自身はポンプとなってありとあらゆるものを起動させ、その流れを自らの中に通すことで動的・ダイナミックな自転車的「自走」(自立、ではない)状態を生きるべきなのだ。
いうまでもなく、この「自走」は資本の一方向に整流された動的安定とは質が異なる。これも新生児をみていれば自然に把握できるが、彼の「自走」は、まったくもって同時多発的/多方向的なのだ。また、新生児への生まれ直し、生き直しというのは、いわゆる「コドモ化」「幼児化」とは全く違う。そこでの「幼児」とは、あくまで弱き大人が自己投影した、ラカン的な「か弱き幼児」というイリュージョンへの同一化、庇護されたいという退行願望であって、力の溢れ出す泉としての新生児への転換ではない。昨日泣いたカラスがもう笑った、というくらいの見方の変化だが、そういつまでも弱ってはいられない。こちらの事情に頓着などまったくせずに、新鮮な新生児は絶賛ポンプ活動中なのだ(この爽快なまでの「親」との無関係さ!)。少々意図的であっても、こちらから再起動しないわけにはいくまい。