・朝、部屋のカーテンをあけ、窓を開くと、外気が冷たく流れ込んでくる。晴れた空を高く一羽の鳥がついっと横切り、一声鳴く。日光が、いくつかの建物を切り出している。車が道路を走ってゆく。人が一人、歩いている。全てがくっきりと粒だって見える。目に入る全ての光景が、耳に入る全ての音が、肌に感じる全ての感覚が、自分と直接対象を繋げてしまったかのように思える、そんな朝がある。


・記号の向う側にある無垢な世界に触れたのではない。全ての記号が混濁せず立上がっているのだ。記号のエッジの連なりを介して「世界」は私の前に現れる。本来、全ての音や光りの伝える情報は、このように常に、個別に、かつ複雑な連盟をなして私にやってくる。けして抽象的な話しではない。誰でも、鮮やかな太陽光や、垂直に降る満月の光に彫刻された光景の、あまりの明晰さに慄然としたことがあるはずなのだ。しかし、私の感覚は、このような瞬間を持続的に持つ事ができない。そのような記号の立ち上がり切った「世界」を受け止め続けるのは苛烈すぎるから。


・だから、私は私の感覚を常に、防御的に閉じている(そうでなければ、人は社会では生きて行けない)。にもかかわらず、ふとした油断が、ある朝何気なく部屋の窓をあける私に訪れている。そんな時、私は、世界があまりにも美しすぎることに「私」を失ってしまうのだ。


・このような、世界の粒だちを“模倣”するのが芸術なのではない。“再帰”させること、あるいは“反復”させることが芸術という営みなのだ。いったいセザンヌが、いつサント・ビクトワール山を“模倣”したことがあるだろう。彼はまさに、自らのキャンバスに、サント・ビクトワール山を“反復”させたのだ。セザンヌのサント・ビクトワール山は、けして実際のある特定の山の写しではない。それはもう一つのサント・ビクトワール山であり、いわば記号の立上がりという水準では、実際の山とまったく対等で同量の存在なのだ、セザンヌが描いただけ、この世界にはサント・ビクトワール山は存在する。


荒川修作が「富士山が好きなら、いくつでも作ればいい。それは実際の富士山より何倍も素晴らしいものなのだ」と言った時、その発言は、セザンヌ的な意味でとらえられなければならない(そうでないなら、彼は、過った「全体性」の虜になる)。


・この一か月ほど、私が何度も中毒的に聞いていた、グレン・グールドの「イギリス組曲」の演奏は、「世界の粒だち」の、芸術におけるもっとも見事な例の一つと言っていいのではないか。あまりに鋭利な音素の連なりの見事さは、けしてそれらの連結のされかたが完全に組織化されているからではない。同時に、自分勝手に演奏されているからでもない。全体性に従属しない、他の全てと異なった音素が、しかし同時に他の音素と緻密に連盟しあい、その双方が一挙に成立している。ここでグールドはバッハを“模倣”していない。ここではグールドはバッハと同時に存在する、対等で同量の音楽家なのだ(ジャケットの遊びを見てみれば、グールドが自覚的なのが明らかだろう)。実際のサント・ビクトワール山に対する、セザンヌのサント・ビクトワール山のように。


・グールドが自然を必要としていなかった、というのはきっと間違っている。だが、少なくともディスクのパッケージの中にはいわゆる「自然」が対象/対称として存在しないことも確かだろう。そこにあるのは徹底的に人工物である、バッハの組み上げたコードで、グールドはそのコードそのものをモチーフにしている。そういう意味では、グールドに似ているのはセザンヌよりは狩野永徳なのかもしれない。大徳寺聚光院の襖絵の、水墨画のコードを享楽的なまでに分解し再編成しているようなタッチとストロークの多声法。


・私にとって絵の具とは、キャンバスとは、そのような世界の粒だちを再帰させ反復させる、あるプロセスなのだ。それはけしてコミュニケーションなどの問題ではない。今朝、窓をあけた、あの世界の再帰/反復。いわば、私は朝を模倣するのではなく、新たにもうひとつ作り上げる。言うまでもなくそれは朝の絵を描く事では実現しない。いわば「朝な絵」を描く他にありえない。