子供は体重が4.5kgを超えた。ベビーバスが窮屈になってきた。お腹が丸く太り、新生児用の紙おむつを在庫切れを見計らってsサイズに切り替えた(母体が出産後実家にいた時、一緒にいた義兄の小学校1年生の子供が1日のおむつの消費量で在庫数を割って「このくらいでなくなるよ」と言っていた、その計算通りになくなった。びっくりした)。起きている時間が増え、反射的なものとはいえ笑顔が出る。声をかけるとこちらを見る。手足をさかんに動かす。おおよそ日中は大人しいのだが、夜10時くらいから深夜2時くらいの間、ぐずる感じになる。私の母が作ってくれた布団に寝かせていると泣き出すので、しばらくは抱いていなければならない。手間がかかると言えばそのくらいで、相対的に静かな乳幼児かと感じる。もっとも、一昨日は2回、飲んだ母乳を盛大に吐いた。吐いた後もけろっとしており、熱もないので、とりあえず経過を見ている。便も臭いを含めて丁寧に観察しているが異常はみられない。


おむつの交換から沐浴から、大抵のケアは私一人でこなせる。ぐずった時に寝かし付けるのは私の方が母体より上手なくらいだが、いかんせんどうにもならないのが授乳で、母乳ばかり飲ませている現状としては手も足も出ない。あの妙に得意げな母体の態度には深い憤りを感じざるを得ない。詩人の伊藤比呂美氏が言っていた「母乳ファシズム」という言葉が思い浮かぶが、ここはやはり、隙を伺って人工ミルクをゲリラ戦的に差し挟むべきだろう。これはたしかに小さな戦いだが、純粋に理念的な戦い、原理において世界的な戦いなのだ。全ての児童は親と「無関係に」育つべきだ。彼等が接続すべき対象が親、ことに実母でなければならない理由はまったくない。彼等は単に肯定されつづければ良いだけで、彼等を肯定しうるのは実母・親だけではない(もし児童を肯定し続けるのが親ではないことに弊害が起きるとすれば、それは「子供を育てるのは親であるべきだ」という制度そのものによる。「子供を育てるのは親であるべきだ。なぜなら子供を育てるのは親であるべきだからである」というのは、あまりに悲惨な循環論にすぎない)。


たまたま彼等を持続的に肯定してゆくのが親であっても結果的にかまわないだけだが、それが「親であるべきである」と言った瞬間にイデオロギー化する。同じ理由で、乳児に母乳を与えること自体は別段問題ないが「実母の母乳だけで育てるべきだ」というのは母乳=おっぱいファシズムなのだ。このような密室状況、母-子の閉じた円環とは悪しきエディプス支配、エディプスの策謀の芽であり農場である。これを外部へ開示することは、単なる「父」による象徴的介入などという陳腐な物語ではなく、むしろ悦ばしき無限連結、クロソウスキー的な無限連結の目論みといえる(ナントの勅令廃棄)。私のこの思考がフロイト-ラカン的な「悪循環」、安直な嫉妬の思考でないことは、以下の展開を見てもらえば明らかだ。免疫効果や経済性(これは大きい。いかんせんおっぱいはタダである)などを考慮すればおっぱいを比較的多く選択することに一見合理性はあるかのようだが、昨今のおっぱいファシズムの広汎な伝播(これは産院を中心に、一見「科学的」な言説を伴って驚く程意図的に進められている。ほとんど「折伏」である)は明らかに転覆が求められる状況であり、人工乳による母乳の機能的乗り越えこそ21世紀の真の科学・テクノロジーの優先課題だろう。


このプランには人工乳それ自体の改善はもちろん、人工乳生成/供給プラントの人体埋め込み、および人口乳腺の開発と実用化、乳児の心理的障壁を勘案したユーザー・インターフェースとしての人工乳房/人工乳首の開発といったロボット・サイボーグ化技術の開発が含まれる。必要なのは技術面ばかりではない。さらにそれらの人種国籍を超えたあらゆる人々への装着を可能にする国際法レベルでの法制、必要な費用を補助する財政構造の確立から、頑迷なおっぱいファシスト(ことに有害な「実母・実乳房ファシスト」)を中心とする社会一般への啓蒙・教育までもが含まれる。さらなるステップとしては「人類全てにおっぱいを」という運動を開始したい。これは一見おっぱいファシズムの延長にあるようだが、高度のサイボーグ技術により希望者は無差別でおっぱいが装着され、また乳幼児(に限らず全ての人)も「いつでも/だれからでも」おっぱいを授乳されるという、いわばおっぱいの完全自由化、おっぱい完全共産主義という、まったくベクトルの反対なムーブメントとなるだろう。私は無限の子供達に授乳することができる。子供達は無限の乳房から授乳される。


「自分の子供」だけにおっぱいを供給する、「自分の母親だけからおっぱいを受ける」というおっぱいファシズムを単純に糾弾するのではなく、いわば徹底的におっぱいを世界に氾濫させインフレーションさせ、エディプスおっぱいの内的解体を図るのがこのプランの真の目的と言える(おっぱい脱構築)。世界のありとあらゆる乳幼児にサイバネティクスおっぱいを連結し、またありとあらゆる所にサイバネティクスおっぱいを装着させる(その対象はもはや人間でなくてもいい。電信柱とかポストとか樹木とか道路とかでもいい。まさにいつでもどこでもおっぱいである)。その到達点では全世界がおっぱいと化し、全人類/全生命が理念的な意味合いにおいて新生児となる。これこそ究極の「新生児の思想」と言える。このような汎おっぱい思想のインストールは、人類の枠組みを超え地球全体の革命となるだろう。とりあえずはこのプログラムを「汎おっぱいソヴィエト(会議)」と呼称することを、当paint/noteは提案する(過渡的には数次にわたるおっぱいインターナショナルのようなオルグは必要だろう)。一部の限られたおっぱいブルジョアジーの手から我々は授乳権力を奪取しなければならない。世界の兵士は銃の代わりにおっぱいを持つ。世界の子供達は立場や環境にかかわりなく、あらゆる人・状況からおっぱいを供給される。繰り返すが、私は「母」から「父」に乳幼児/おっぱいを開放しろと言っているのではない。惑星にむけて開放したいと主調しているのだ。


大人に、子供に、おっぱいを。

男に、女に、おっぱいを。

老いに、若きに、おっぱいを。

樹木に、ビルに、おっぱいを。

氷河に、ジャングルに、おっぱいを。

海に、砂漠に、おっぱいを。

この星の全てにおっぱいを!



御静聴ありがとうございました。今年もよろしくお願いします。