誰かが誰かから恩を受けているとか、だからあいつは誰それのことを誉めているのだとか、そんな事ばかりを一見物知り顔に(業界通?)言っている人に対して、私が聞きたいのは、そんなことはともかくとしてそこに産まれてしまった作品なりなんなりをあなたはどう評価するのか、ということだけだ。俗事から切り離された、清浄なところで純粋な作品が作られるといった、今どき10代の子供でも信じないようなフィクションを持出されても対応に困るし、どんなにヨコシマな動機で、下らない利権関係のアミの目にがんじがらめになりながら産まれた作品でも、良いものは良いしつまらないものはつまらない。


問題はつまらないものが下らない利権関係によって「良い」とされてしまったり、面白いものがヨコシマな動機によって「つまらない」とジャッジされてしまうことで、こんな事が行われたのならはっきりと「その判断は間違っている」と言えばいいだけの話しだ。だいたいにおいて、なんかしらの形で表面に出たものなら、特定の共同体の中で過った判断がされたとしても、結局は外部の目から相応の判断が示されるものだし、細かな損得勘定は別として、トータルでは「面白いのに消されてしまう」事はゼロとは言わないまでもある程度救済されているように思う。傾向としては面白いものが消されるよりはつまらないものが無駄に流通している印象だけど、これはたぶん反対の事態よりはマシだ。あとは判断が重要なのだ。


同時に、そのような関係性の苦闘の中からのみ「厳しく優れた作品」が産まれるというのもまた、笑ってしまうほど安直な考えだろう。ときたまこういう事を、まるで「プロフェクショナルの倫理」みたいに説教する人がいて、まぁそういう人は直接あるいは間接に自分の苦労話を聞いてもらいたいだけの迷惑な老人なのだから、とりあえず放置して「作品」だけ見ておけばいいのだけど、こういう人々が気持ちの悪いギルドを作って「結局わかる奴にしか分からないんだよね」などと目配せしあっているのを見たりすると、確かにそのような矮小な共同体のもたらす生産性など下水に流してしまってかまわない、とっとと消えてなくなってしまえ、とも思う。


現在「権力」と名前のつくものはおおむねメディアに接続しているが、そういう意味で「権力」を持っているという人というのは、なんの事はないメディアの操作権を持っているというだけの話しで、これって突き詰めていえば「他人に見られる快感」なんぞという、小学生女子のファッション雑誌(プチニコとか)の「読モ」レベルの幼稚な快感の分配権(力)にすぎない。「食べるために仕方なく」なんていう言い訳は成り立たない。「好きでした苦労だろうが」というやつだ。「ワーキングプアの希望は戦争」とかいうアジテーションをちらりと見れば分かるが、要は生き死により「まなざされる自意識」が優先的に欲望されているのが「今」だろう。まなざされさえすれば死んでも(殺しても)いい、という「垂直的視線の欠如」が全面化している。結果、メディアの奴隷だけが生産されていく。


こういう事をブログで書いていると、だいたいのオチは「既成メディア批判」というところにおちつく。放送・出版などのメジャーメディアをこきおろし、それに対するwebというオルタナティブなゲリラ戦の輝かしき純粋性を賞揚するという退屈なルートに沿ってフラグを立てるのがお約束(古いがとんねるずの名作だ)となる。が、もちろんこれまた安易な話しだ。だいたい、いまや出版などというメディアのまともな部分というのは「権力」なんていう言葉がまったく成り立たないくらい小さい規模しかなくて読者も昔の同人誌以下だろう(1000をこえる読者がいたら立派、とかそんな感じだと思う)。


図書館が公共事業的に買ってくれるから維持できている部分も大きいのではないか。単純な読者数で言えば、ちょっと気の効いたブログの方がよっぽど巨大な読者を持っていて、同時に権力も兼ね備えつつ有る。いまだ「出版」に権力があるように見えるとすれば、彼等は流石に長い歴史を持つぶん、それがどんなに小さな権力であろうと「使い方」を知っているからで、雀の涙みたいな力を最大化して行使できるにすぎないし、webの方はといえば、コドモが急に権力を持ってしまったようなもので、いまだその適正な使用ができないでいるのだ。「醜悪なギルド」はwebでこそ目に着く。


だから、webではきれいごとが言えるわけではまったくないし、既存メディアなら多くの人に届けることができるわけでもない。メディア(まなざされる自意識)の奴隷の行き着く先が、せいぜい「新書デビュー」とかだったり「アルファブロガー認定」だったりするというのが事態の可愛らしさといえば可愛らしさだが、結局「量」あるいは「人数」でしか「水準」を図ることができないというのが根本的な貧しさなのだ(貧しい人程「金」にこだわってしまうようなものか)。“多数の人が認めているから良い”というのと構造的に同じくして“少数だけが認めているから良い”というのもあるが、簡単に言えば「仲間」の存在を抜きに判断ができない事が低劣なおしゃべりに繋がる。


他のことならいざしらず、こと美術に関しては、判断は個別に分析的に行われる。なぜ私がそうするのかと言えば、それが正しいからでも立派だからでも誰かに誉められるからでもなく、それが刺激的で面白いからにすぎない。能力の問題でも精神的強さの問題でもない。好きなことなら自然とそうなるし、そうならないなら好きでないのだから止めればいいだけの事だ。アホか。