六本木クロッシング」展が終わっている。もちろん複数の意味で。私は見に行っていない。以前このblogは「作品について何か言うなら見てから言え」と横断幕を張っている(参考:id:eyck:20071022)。展覧会は「作品」ではないが、少なくとも私はこれから「見ていない展覧会」について書くのだから、「あいつはダメだ」と言う人があっても不思議ではない。言われておく。「六本木クロッシング」展に関しては、前回時に「六本木クロッシング展・全作品コメント」というのを書いている(参考:id:eyck:20040317、以降数回)。新たな「六本木クロッシング」展があると知った時には、同時代の、普段けっして恵まれた環境にあるとは言えない作家に光りが当たる企画が都心の集客力のある場所で持続されることは良い事だと思ったし、単純に、普段いろいろ見ている展覧会の一つとして展観もするつもりでいた。


すっかりその気持ちが萎えてしまったのは出品者が発表された時で、森美術館のwebページでは合わせて第二回「六本木クロッシング」展についての考え方も示されていたのだけど、その文章は、なんというか、徹底して刺激を欠いていた。今は読む事ができないが(なぜだろう?)、作家の選考に関して「キュレーター達の偏愛に基づく」みたいな文言があり、ああ、結局「評価基準」、批評の軸になるべき決定的なラインが見つけられなかったのだな、と読めた。簡単に言えば趣味で選んだと言っていたわけで、恐らくその趣味性を象徴していたのは四谷シモンという固有名詞だろう。「偏愛に基づいて四谷シモンを選ぶ」展覧会、というのは、いかなる意味でも批評性を捨てました、と宣言したようなものだ。逃げ道はない−例えば、現状の社会や芸術の在り方にとって、「趣味的」であること自体がある批評性を持つはずである、という身ぶりすらとりようがない。


四谷シモン氏をいかなる評価基準の転倒も転換もなく肯定して、なんのひねりもなく「偏愛」で「美術」展に選ぶ、という、このプロセスは全面的な批評の放擲だ。もちろん、批評性のない現代美術展などありふれている。だが、今回の「六本木クロッシング」展、ことに「偏愛に基づいて四谷シモンを選ぶんだ」六本木クロッシング展というのは、“批評がないとか批評が機能していないとかいう批評”、状況論としての批評も捨てて、むしろ美術展における批評機能の抑圧にすら見える。こんな言い方は完全に過大評価、というか大袈裟で、彼等は単に面倒臭いこと(批評/判断)を回避して、ラクに楽しいお仕事をエンジョイしているだけなのだ。楽しいお仕事をして何が悪い?と言われれば、何も悪くない。悪い所(悪意)が何一つないところが酷い。「六本木クロッシング」展は厳密な意味での美術展ではなく商業イベントとか広告プロモーションにすぎないし、しかもそれはエンターテイメントとしてすらダメな(東京ディズニーシーなんかにもまったく及ばない)興業なのではないか。


晦日にほとんど断片的に見た「紅白歌合戦」、その出演者の顔ぶれが、今回の「六本木クロッシング」展に物凄く感触が似ていると思う。試しに出品者/出演者を並記してみる。

飴屋法水 池水慶一 伊藤ガビン 岩崎貴宏 宇川直宏 内原恭彦 内山英明、 Ages5&Up 榎忠 エンライトメント 小粥丈晴 鬼頭健吾 小林耕平 さかぎしよしおう 佐藤雅彦+桐山孝司 関口敦仁 立石大河亞 田中偉一郎 田中信行 チェルフィッチュ 辻川幸一郎 できやよい 中西信洋 名和晃平 長谷川 太/TOMATO 原 真一 春木麻衣子 東恩納裕一 冨谷悦子 眞島竜男 丸山清人 山口崇司/d.v.d 横山裕一 吉野辰海 吉村芳生 四谷シモン

ハロー!プロジェクト10周年記念紅白SP隊(モーニング娘。 Berryz工房 ℃-ute) 川中美幸 中村美津子 長山洋子 mihimaru GT アンジェラ・アキ 香西かおり 水森かおり AKB48 リア・ディゾン 中川翔子 絢香 伍代夏子 あみん 平原綾香 BoA 坂本冬美 小林幸子 大塚愛 浜崎あゆみ aiko 倖田來未 中村中 天童 よしみ 中島美嘉 一青窈 DREAMS COME TRUE 和田アキ子 石川さゆり


期待の新人がいて、ベテランがいる。話題の人がいて、地道な活動をしている人がいる。知っている人がいて、知らない人がいる。このステージに上がる事で社会的な意味の発生する人がいるし、それは良い事でもあるだろう。個別には深い実力をもった人もいるだろうし、この中で本当に素晴らしい作品が展開していた可能性だってある。


しかし、なんだろう。この、根本的な「見る気がしない」感覚は。


繰り返すが、どっちにも「良い作品」はあったかもしれないし、良いアーティストもいただろう。その可能性は否定しない。問題は全体のフレーム、企画のアクチュアリティが笑ってしまうほどないのだ。紅白歌合戦に関しては、まがりなりにも58回の「歴史」があり、今はなくてもかつては確かに何らかの形で意義有るイベント、しかも公共放送が行うだけの意義があっただろう(そして、今もこのような根拠なき大形番組が遂行できるのはやはり公共放送だからなのだ)。相応の積み重ねがある企画が、自らの存在意義を見失ってなお「終わる事ができない」姿というのは、一応考えを巡らすだけの余地があると思う。しかし、たった2回目であっさり「偏愛に基づいて四谷シモンを選ぶ」六本木クロッシングというのは、いったい何なのか?時代が変ったとか、その中で試行錯誤をしているとかいう「姿勢」だけは垣間見える紅白歌合戦と比べてしまうのは、いくらなんでも紅白歌合戦に失礼だろうか。はっきり言うが、六本木クロッシングがアクチュアリティ0なのは時代のせいでもなんでもない。


いずれにせよ、一時期は確かにあった「偏愛」の文字を、森美術館のwebサイトは何故消去したのだろう。他でもない、展覧会のコンセプトを説明するページにあった文言だ。「偏愛」が意味有る言葉なら、多少のクレームは受けても断固かかげつづけるべきで、それが最低限の倫理というものではないか。結果論で言えば、「六本木クロッシング」展は、選考の基準とした考え方を隠し、あるいは捨てて、しかし基準そのものを練り直すことも選考を洗い直すでもなく、たんにそのまま「やっちゃった」のだ。こんな事にひっかかるのは、今、日本で私だけなのだろうか。回りを見ているとそうらしい。したり顔をしたビジネスマン達は、真のビジネスの世界では到底通用しない、少なくとも六本木ヒルズという今の日本のビジネスシーンを代表する超高層ビルの高みでやる精度ではまったくないビジネスを「芸術なので」と言い訳しながらヌケヌケとやっていて、「消費者」はそれを喜んで消費し、「アート見たよー」とかblogに書いている。哀れな作家はそれを支えるネタ元として消費されていて、批評家っぽい顔をしたライター達は、かしこそうな/親しみある(どっちも同じだ)言葉でジャーナルを埋めている。見識ある立派な大人達は「こんなのは他でもよくある状況なんだから」と華麗にスルーしている。


いやぁ、凄い。凄い風景だ。