・作品と言うのは基本的に役にたたない。それ自体自立したもので、もう少し踏み込んで言うなら、特定の役にたつものは厳密には作品でない。なんというか、空回りしている水車みたいなもので、そこに上手くアクセスすると時にはお腹を満たしてくれるものを作ってくれたり、灯りをともしてくれるエネルギーを供給したりすることもあるにはあるが、それにしたってあくまで副産物でしかない。今有る「作品」の多くが、一見見事だったり笑えたりしながらも最終的につまらないのは、最初から目的がハッキリ規定されていて、その目的に向って最大限効果的に組織されているからで、いくら見ても、あるいはきっと誰が見ても、整然と決められた回路を再短距離で電流が流れて決まった効果しか産まないからだ。それは確かに分かりやすく(成果がみんなで確かめやすく)、効率的で、手が込んでいたり見た目が上手に仕上げられていたりすれば感心もするのだけど、なんというかオチの見えているネタ話しをテレビで見せられるようなもので、ということはつまりそれはテレビのネタ話しで代替できるものでしかない。


・結局「質」がわからないので「効果」、しかも“自分以外の誰もが承認してくれる”効果にしか判断基準がおけない。そこで見られているのは「作品」ではなく「他人を通じた自己承認」という最悪のナルシズムで、なんだかんだとネタにされ踏み台にされた作品は、いろんな過程をへた計算式の果てに消去されてしまう。四則演算の最後にどうしても割り切れず、扱いに困る部分こそ最も作品の貴重な部分だし、こういうものを「無駄」と排除するいかなる思考も作品を扱うに価しない。なんでこんなに「効果的」で「はっきり価値をみんなで共有できるもの」ばかりが求められるのか、という分析は社会学にまかせるが(要は流動性が高まって共同体の紐帯が崩壊したエリアでは仮想的に共有可能なコードが捏造されるが、しかしそのコード自体すぐに共有可能性を失うので、不安の繰り延べの為に瞬間的なコードの生産/消費サイクルが無限に高速化していく、とかそんな感じだろう)、いずれにしたってそれらは作品とは無関係なものだ。


・作品は役にたたない。そして、だからこそ産まれる有り様がある。作品は恐らく、防ぐことのできない新しい時代の、精神の居場所を準備してしまう(例えば「私は働く人たちの為の安楽椅子でいたい」というマチスの発言は、このことに繋がりうると思う)。問題は、この「新しい時代」が最悪の時代かもしれないということだ。人がバタバタと倒れていく。そして自分がいつ倒れても不思議ではないので、その恐怖から逃れるために人をバタバタと倒して行かざるを得ない。そこでは「効率的」で「効果が今すぐ確認できるもの」の渇望が最大限になり、そうでないものは貶められる。倒れないために倒れそうな少数の人を多数の集団で倒し尽くす民主的政治が加速化し、それが終われば多数の中がただちに分裂して倒せそうな人をまた倒して行く。あるいは少数がどんどん癒着して懸命に多数になりたがる。多数でなければただちに倒される(倒している間は倒されずに済む)からだ。だからこそ誰かと承認を共有・確認できるものだけが生産される。逆に言えば、誰かと承認を共有できる事を目的化したものが生産される。そうして形成された「多数」は実質的に偽なのだが(本当の「多数」は声もなく倒れていく)、このような偽の行使する暴力だけは即物的に実体化する。


・こういう状況に精神はありえない。capital装置に制御された関係性の地獄を「歩かされている」だけで、自立的な思考の展開としての精神は存在できない。そういう場面、そういう時に、なお精神が居場所を確保できるとすれば、それは作品にしかありえない。作品は癒着的な仲間を必要としないし、だからこそ全てを踏破してゆく。個別に独立したものであるからこそ、そういった作品の連なりは相互にどんな連合も組み立てられる。逆説的な言い方だが、独立した個に孤独はない。私は抽象論を言っているつもりがない。様々なレベルでの貧困化は、きっとグローバルに止められない。集中はさらに集中を加速させ、その周囲を反比例的に飢餓化してゆく。アフリカの貧困(例えばケニアのような状況)が日本に出現しないと、そしてそこに自分が立たされないと思っている人は楽観的だ。それを避けるために「勝つ」しか考えない、という発想自体が貧困を招く。「勝ってる」人は「負けてる」と自己規定する人と構造的に同じ貧困にしか立っていない。「負けてる」と自己規定する人は、「勝ってる」人と同じニヒリズムに陥っている。要するにそういう安直な、しかし恐ろしい程の支配力を持つ二項対立から逃れる思考が必要で、作品は、こういったプロセスの中で、精神にとって不可避だ。もう少し率直に言えば、作品だけが精神なのだし、作品だけが自由を意志できる。


・誤解されそうだが、作品は欲望を制御するものでも、ましてや欲望を抑圧/禁欲させるものではない。昇華とか全然関係ない。作品は、欲望を全面的に肯定するためにある(あるいは欲望の完全な肯定を作品と呼ぶのだ)。欲望の暴走がcapitalなのではなくて、capitalは欲望をあまりに理路整然と管理しすぎており、欲望を一まとめに整列させてサーキットを巡回しかさせてくれない。だからcapitalはちっとも気持ちよくないし、むしろどんどん虚しい気分だけを増大させてゆく。これはcapitalのサーキットを効率的に周回しているトップクラスのレーサー達の顔を見ていればすぐにわかる。彼等はあまりに成功しすぎて虚しさの極点みたいなブラックホールになっている(だから周囲にいる人々は抗えずにどんどん彼等に吸い込まれていく。事象の地平線?)。欲望をブラックホール化させるのがcapitalのサーキットなのだとすれば、欲望をホワイトホール化するのが作品の筈で、その存在は勝ちとか負けとかとは無関係な場所に、幸福にかつ過激にあるのだと思う。