展覧会について。率直に言えば、私にとって展覧会とは作品の発表の場であるという事以上の意味は薄かった。少し考えが変ったのが昨年の2つの展示、殻々工房での個展と「うきぐも」展で、展覧会というのは単なるショー(あるいは売り出しでも何でもいいが)ではなく、それ自体一つの思考の為のツールとして捉え直すべきなのではないか、と感じた。


画家は絵を描くことで考える。何度か書いたが「考えた事を描く」のではない。木枠を組み、キャンバスを張り、絵の具を練って画面を構築してゆく、その全てが世界に触れ世界を考えるための所作なのだ。自分の体より大きな(小さな)木材をフレームに組み立てる作業を通して、画布を切りタックスで木枠に固定する力の加減の仕方を通して、絵の具を選びパレット上で練り上げる、その調合の在り方を通して、私は世界と関わり、世界を再構成している。素材の摩擦力とか硬度とか、必要な場所とかかかる費用とか、自分の体力とか体格とか、そういうものを個々に捉え直しては組み立て分析し総合する。こういった行為を通じて(単なるイメージではない)現実の、実際のモノとコトに触れてゆく。最初の準備から既に思考ははじまっていて(だからそういう工程を隠蔽するような「仕上げ」はしてはいけないのだ)、その延長、というか一部として、絵を描くという行為もある。


木材が割れてしまうような力はかけられないし、画布には面積に制限がある。ひっぱりすぎたら破れるが、たわませてしまえば絵の具が乗せにくい。絵の具にしたって、たとえばモニターのようなRGB発色はできない(反射光でしか見ることができない)し、乾燥には一定の時間がかかる。重力を無視してキャンバスを張る事も絵を描くこともできないし、むしろ重力それ自体が絵を描くために利用もされる。生活の全ての時間を絵を描くことに費やすことはできないし、逆に費やしてしまう事はけして良い制作をもたらさない。私は絵を描く事で、現実の条件、世界のルールに触れながら、しかしそれに単に服従するのではなく、それらを利用し活用し、今まで世界に存在しなかった「作品」を一つづつ組織してゆく。制作は世界との交渉であり、世界との協力であり、世界を探る一つの探検であり、そしてそれらの総体が「思考」と呼ばれるのだと思う。


こういった成果を人に見せること、それは単なる社会化だけではなく「作品を世界に返す」という側面もあるのだけど、いずれにせよ私にとっては「ある思考プロセスの終了」したものを「見せる」のが(そしてそこでの反応を見て次の思考にとりかかるステップにするのが)展覧会だった。だけど、もしかしてこのような考え方は間違っていた、あるいは「もったいない」考え方だったのではないかと感じたのが昨年の2つの展覧会後の感触だった。簡単に言えば、展示自体が絵を描くのと同じように行われてよい/展示のプロセス自体が「思考」の延長になりうるし、またそうでなくてはいけないのではないか、と感じられたのだ。


こんな事は見ようによっては当たり前の話しなのだけど、やっぱり展覧会というのは「自分の価値を世に問う」ものでもあるし、若い時などは展覧会の全てがその価値で覆い尽くされてしまっていたと思う。作品を“よりよくショーアップ”することで自分をショーアップしたくなってしまうという、抜き難い自意識で展覧会を構成してしまうのだ。だけど、展覧会の「評価」というのはあくまで結果として残るもので(それがどうでもいいわけではない)、展覧会自体は、別に作家の自意識に従属しなくてはいけないわけではない(作品が作家の自意識に服従してはいけないように)。それ自体自律した組織物が展覧会であるべきで、だとするなら、特定の空間に作品を配置し、光りが導かれ、そこに不特定の人の視線が流れ、反応をおこしたりおこさなかったりすること全体が、「木枠に画布を張り絵を描くのと同じように」世界に触れ、世界と交渉し、世界と協同し、世界を再構成する「思考」のプロセスになりうるのではないだろうか?


「絵を描くように展覧会をする」と発想することで、なにかインスピレーションが湧くような感覚がある。何ができるのかどうか分からないけど、新しい姿勢で「展示」というものに取り組めるかもしれない。