東京国立近代美術館で「わたしいまめまいしたわ」展を見た。細部はともかく全体には面白かった。この展覧会は、京都国立近代美術館国立国際美術館、そして東京国立近代美術館自身の所蔵の作品群を「現代美術にみる自己と他者」という問題設定で再構成したもので、まずこういう「資産の再利用」的な方法論で、今なかなか大規模には組織しづらい同時代の美術の展覧会をやってみるという試みは、現在の条件に対する美術館の抵抗の所作として理解できる(逆を言えば、国立の美術館であってもこういう工夫をせざるをえないということなのだけど)。私は以前、国立新美術館のオープニング企画展「20世紀美術探検」について、この「美術センター」の“構造”あるいは“文脈”を批判するという立場から、その既存美術館のコレクションを再利用した展示にネガティブな評価をしたことがあるが(参考:id:eyck:20070307)、このエントリでもあちこちの収蔵庫にある作品を特定のキーワード(コンセプト)に基づいてデスクトップ上に呼び出し再構成するという手法の可能性については積極的に見ていたつもりだ。


いっそのこと、六本木のあのハコはこのメソッドに特化した展覧会場として機能してもいいと思ったのだけど、その後の国立新美術館は、本来その成立基盤から開館時にやるべきだった日展100年展(最初の1室・2室くらいまでは相応に面白い展覧会だった)をして以降、いわゆる名作中心主義的なものすごいフツーの美術館になっている。なんなんだ一体、と思っていたら竹橋がこういう展示をしてびっくりした。金曜の夜間開館時にけっこうな人数、しかも若い人が来ていて、集客的にもある程度成功しているように思えた。とにかくこの作品数で一般420円という入場料は素晴らしい。パンフレットも、中とじの簡易なものながらグラフィックに工夫されていて、面白い仕上りになっていた。印刷自体のクオリティは低いが、価格的にも造本とのバランスを考えても了解できる範囲だ。要するに画集とか図録というよりは、一種のノートとして捕らえるべきパンフレットなのだ。『さまざまな「わたし」と「他者」の関係を前にして、あなた(観客)もめまいを起こすかも!?』とかいうリード文はアイタタタ、といった感じだし、5人のキュレーターの問題意識と作品の選択も疑問無しとしないが(舟越桂氏の、しかもよりによってあの最高にダサイ作品を選んでしまうのはいかがなものか)、野心的な試みではないか。


展示中、最も優れて見えたのは二人の写真家のプリントだ。須田一政氏「風姿花伝」と、牛腸茂雄SELF AND OTHERS」がそれで、いずれも写真のあるリミットをかいま見せるようなものだった。一言で言えば、全展示会場でこのセクションだけが深く官能的−もっと率直に言えば強烈に性的な興奮を引き起こすのだ。ことに須田一政氏のエロティックさは異常で、コントラストの強いモノクロプリントに浮かび上がる、ねっとりとした質感は「これ、こんなところに展示していいんですか」と言いたくなるような代物だろう。暗い民家の壁を這う蛇の写真など、私が今まで目にしたあらゆるポルノグラフィーを吹き飛ばすような「エロ写真」だ。ヤギの死体からはみ出た臓物に埋もれたい、という衝動は押さえ難くなるし、祭りの町を見下ろすような、化粧した少年の姿など、いくらなんでもいやらしすぎる。これらの作品が、1970年代のものであることは注視すべきだろう。コンセプチュアル・アートなどのモダニズムのグローバルな展開があった中で、ローカルな土着性みたいなものを、いわゆる「アングラ」的「抵抗」として見せていったのが1960年代から1970年代の日本の状況だとして、しかし須田氏のこのプリントはそういった時代状況から無関係にありうるような普遍性を持っている。生=性の衝動が死を指向してしまうようなフロイト的な写真が「風姿花伝」で、もはや1970年代というよりは1910年代くらいまで遡行する、優れた反動を見せることで逆説的に超未来的表面を獲得している。


須田氏より遥かに繊細なのが牛腸茂雄で、「SELF AND OTHERS」は、いわばとことん性を迂回することで独自のセクシャリティを得ている。牛腸の写真を特徴づけるのが「距離」であることは、多分写真の世界では周知のことなのかもしれないが、ほぼ「イっちゃってる」須田氏の作品と近接して並べられることで、牛腸の「距離」に含まれる「質」がより明解になっているのが今回の展示だろう。牛腸の距離は「踏み止まり」、対象に近付くことの恐れがもたらす「踏み止まり」によって産まれている。手を伸ばして、なお触れることができない距離から牛腸は写真を撮る。この「届かない」感覚の連続は、60枚という枚数を見てゆく事で、観客に徐々に暴力的な衝動をもたらして行く。この衝動を惹起するのはポイントごとに挟まれた幼女で、微妙に足を見せた、丸みと弾力と決定的な「弱者」性を露呈させている幼女達は、肉食獣の筋力を発動させるような誘いを見せる。直接的な言い方をすれば、牛腸の「SELF AND OTHERS」を見るものは、だんだんと牛腸自身の性的な欲動に浸されてゆき、やがて写真を前にして、対象となっている幼女(達)に向って駆け出し、襲い掛かり、めちゃくちゃにしてやりたいと思うようになるのだ。むろんその衝動が犯し破壊しようとしているのは実は幼女ではなくSELF/牛腸自身である。そのことが明らかになった59枚目の自画像が開示されたとたん、子供達は牛腸の手からするりと身をかわし、後ろ姿を見せて霧の中に逃げ出す(60毎目)。ここでは牛腸の組み上げたドラマの、一種の通俗性を見るだけでは十分ではない。そのようなドラマが脱臼してしまう、その後の「なにもなさ」、空白こそが開示されているのだ。


ドゥルーズという人のダメな所を示すのは美術作品、ことに絵画に対する評価で、この人が持ち上げた美術家で多少なりとも面白いのはティンゲリーくらいなものだ。今回の展覧会にはフランシス・ベーコンの絵画が1点展示されているが、もともとくだらないイラストレーターのフランシス・ベーコンの作品の中でも、さらにつまらない作品が掲げられている。少なくとも私が見た中でベーコンの絵画に良いものなど1点もなかったし、どうかんがえてもこの人の絵にまともなものがあるとも思えない。こんなつまらない画家を持ち上げてしまうドゥルーズの絵画に関するセンスは一切信用できないが、ドゥルーズの目のダメさに騙されたひとは世界中にどのくらいいるのだろう。名だたる批評家達がドゥルーズを鵜呑みにして満足に絵を見る事もなくベーコンの絵に不要な言葉を捧げ続けた。そしてもちろん、世界中の美術館がこぞってベーコンの絵を(ドゥルーズの御墨付きだけを信用して)買い求めたわけだが、だとするならこの絵を持っている東京国立近代美術館を批判するのも酷だろう。ベーコンを語りうるとすれば「趣味」としてだけだろう。

メールにて、以下の指摘がありました。

  • ベーコンが売れたのはマールボロ画廊の営業、ハイ・ソサエティと微妙に結びついたゲイ・コネクションがあったからで、ドゥルーズが論ずるずっと前から世界の美術館に作品が収蔵されるスターだった。
  • ドゥルーズがアート界に多少とも影響をもつようになっ たのは、アメリカでデリダに続いてドゥルーズが受容されるようになった1990年頃から後の話。
  • それもごくわずかな影響に限られる。例えば、ベーコンとバルチュスに西洋絵画の伝統の現代における最良の継承をみるというジャン・クレールの意見のほうが影響が強い。

御指摘に感謝し、注記します。4/18永瀬付記


河原温高松次郎、宮島達男、といった作家の作品も(質はバラつくが)参考になる。同じチケットで所蔵作品展「近代日本の美術」 も見ることができる。終盤には「わたしいまめまいしたわ」展と同じく現在の作家もいて、良い流れではないだろうか。くだらないと言えば所蔵作品展の最後近くに、ジュリアン・オピーという作家の「日本八景」という液晶モニターライトボックスみたいにした作品があるのだけど、このくだらなさは良い。ベーコンと違って笑える。


●わたしいまめまいしたわ