去年のエントリで最初一緒に書いていたものなのだけど、別に立ててこの話しをしておきたくなった。既述のとおり、我々は事後的に出産にかかった費用のうち、35万円の補助を受け取る手続をした。大助かりなのだが、逆の言いかたをすれば、子供を出産しようとすれば一時的にでも35万円以上の現金を当事者が持っていなければならない(我々がお世話になった産院は、入院予約の段階で10万円、退院時に経費から予約金10万円を引いた金額を現金で支払う)。手続をしている頃何度か思ったのだけど、この金額が用意できない妊婦や家庭など、いくらでも存在するだろう。若く経済環境が不安定で、なおかつ実家のフォローが期待できない母親・父親などは、出産の手前で厳しい環境に立つことになる。


もちろん、そういう人々に対して一定の福祉制度はある。受領委任払い制度がそれだが、その手続きはおそらく我々がこなした諸手続きと同等に煩雑だろう(驚いたことにこの制度ができたのは最近だ。つかこうへいの蒲田行進曲の、産まれてくる子供のために売れない役者が「階段おち」をするという設定は、ついこのあいだまで冗談にならないお話だったのだろうか。いったい今までどのくらいの人々が、子供のために様々な「階段落ち」をしてきたのだろう。私の父母はどうだったのだろう)。しかも、35万円の範囲でスムーズに産まれることのできる子供ばかりではない。実際、我々はこの範囲をかなり上回る出費をしている。仮に、35万円をぎりぎり用意できたとして、分娩の段階でなんらかの医療行為が必要になった時、余分なお金がないからあきらめます、と言えるだろうか。しかし、そんな現場は、必ず一定数ある。そこでは、一体どのような判断が行われているのだろう。お金がないというのは、本当にないものなのだ。


仮定の話しだが、私が大学卒業後数年目程度の段階でパートナーの妊娠を迎えていたら、はっきり準備できなかったのが35万円という金額で、何らかの事情で周囲のケアが期待できないならお手上げだったろう。16歳の女性の婚姻を認めている社会というのは、もちろん16歳で妊娠し労働できない母体の存在が前提で設計されていなければ論理的に破綻する気がするが、これはひとまず置いておく。とりあえず受領委任払い制度があるというインフォメーションをキャッチして、多くの書面を準備して、適切に記入して所定の窓口に提出するというのは、けっこうな難しさであって、例えばこれがしっかりした教養をいまだ獲得していない、十代後半の若い人とかにこなすことが常に可能だろうか?可能であるという建前はあるだろうが、実際には一定の数の人々が取りこぼされてはいないか。受領委任払い制度は健康保険を滞納していないことが資格として必要だが、しかし、まさに健康保険を支払えないようなひとに助けがいるのではないか。


簡単な役所+役人批判とかをしているつもりはない(たぶん、現場では、そのような人々に対するフォローをまさに役所で働いている人が担わされているのではないか)。行政・官僚体制というのは、その体制を保持する人々の無意識を反映していると思う。とりあえず妊娠・出産という場面においては日本という国は、 所定の手続きを問題なく遂行する意思と能力、そして一定の経済力(健康保険を滞納せず、子供を妊娠してから分娩し退院するまでの生活を維持できてなおかつそれとは別に35万円以上かかった費用の差額が支払える力)を持ち、定められた条件をクリアした男女と子供を保護する。が、その基準に達しない/あるいは逸脱するものには厳しい印象がある。ちなみに私の住んでいる埼玉県は、産婦人科医一人当りの妊婦・患者数が全国最多/最悪だ(それは働いている医師の環境が劣悪でもある、ということだ。そして、なおかつ、出産費用が払えなかった人の実際の穴うめは、病院が最終的に「ただ働き」で行っていると聞く)。そして、これは口にするのが恐い、しかし多分あたっている推測なのだが、そのような「取りこぼし」や「犠牲」があった上で、私たちは、35万円を満額受け取ることができるのだ。


確認しておきたいのだけど、社会的コンセンサスとして「力がないのなら子供を持つな」というのは前近代な話の筈だ。わざわざ書くのもはばかられるが、妊娠および出産は、人のコントロールが十全におよばない範疇の出来事で、しかもそのように出来た子供は、一定段階を過ぎた胎児の段階で独立した個人、つまりその親とは切り離されたひとりの人間として尊重されるのが現代の社会の基本だと思う。そもそも福祉とは弱者のためにあるもので、弱者は救わない、というのは福祉でもなんでもない。(というか、弱者を切り捨てて実現される経済効率とは、いったい何を目的にしているのだろう−もっとも、そんな状況は日本がモデルとしてきたアメリカで、より深く進行しているようなのだけど)。


私は一方的に社会的正しさを語れるわけではない。子供ができたとたんに「正論」を言うというのもアレだ。実際、自分に子供ができるまでこういった問題に関心を払わない、どころか身近に新生児が誕生しても型通りのお祝いを述べる以上の肩入れや助力をしたことがなかった。上記の「無意識」とは自分自身の無意識であったかもしれない。結局、自分の身にふりかからないとこういう事も考えない、という想像力が問題なのだろう。ついでに書くが、私は今でも国の「少子化」が悪いことだと考えていない。ただ、生を生きはじめた存在の一定の数を現実には切り捨てつつ、看板では大きく「子供が希望をもてる国」だとか「教育改革」「少子化対策」だとか言っている社会の無意識とはどんなものなのだろう(これも先日書いたが、やはり子供というのはモデルの無意識を見て学ぶと思う)。


たぶん、その根底にあるのは、恐ろしく素朴で貧しい功利主義で、多分単に私(達?)は「損」がしたくないだけなのではあるまいか(少子化が課題だ、というのもそういう話だ)。問題は、「損だけはすまい」という在り方が、果たしてどのくらい効果的なのか、その態度自体が決定的に個人も全体も貧しくして「損」させているのではないか、ということなのだけど、怖いのは、「自分が損するのは死んでもイヤ(!)だが、皆が損するなら別にいい」という、ものすごい退廃に、私を含めた社会が呑まれているという可能性だ。考え過ぎならいいのだが、いずれにせよ現在、35万円は条件を満たした親子に一律で給付されている。既に権利を受けつつある私が言うのも問題含みだが、これを親の経済条件によって額を変え、より困難な状況にある現場に厚く配付してもいいのではないかと感じた。