北千住のおっとり舎で行われた、池田剛介氏のレジデンスプログラムの中間作品発表を見て来た(http://blog.livedoor.jp/ottorisha/archives/572736.html)。面白かった。作品はアクリルボックスの中に樹脂で形抜きされたような金魚や植物の葉が充填されたもので、それが古い店舗を改装したような空間にいくつか置かれている。アプライトピアノの上や棚と壁面が作るL字形の空間に斜に立て掛けられているものが多いが、いくつかは壁面にかけられている。アクリルボックスは厚みはあるもののの面積に比べて深度は浅く、平面性が高い。比較的小さな物は正方形で、やや大形のものは縦長の長方形となっている。ボックスは透明だが底面がアルミのような反射面を成しているものもある。小品は金魚の群れが水面から覗き込まれたように配され、大形のものは沼に落ち葉が集積したように重ねられている(隙間に金魚もわずかにいる)。葉や金魚も様々に着色され、キャンディーのように透過光で発色する。また会場奥の制作場と思える所の棚には、直方体の支持体にやはり樹脂製の葉が接着されたものが2本置かれている。中に照明が内蔵されているようで、白く発光している。


池田氏の作品は横浜での東京芸大の「表現の水際」展(参考:id:eyck:20050331)、及び昨年のスパイラルでの京都造形大「混沌から躍り出る星たち」展の出品作を見ている。新作に関しては未完とのことなので最終的な判断はできないし、いくつかのことは現場で作家と話した。ここでは主にそれ以外の事を書く。とりあえず今回の訪問で、池田氏は絵画の問題を、絵画の「内」でも「外」でもない、いわば境界線状で思考していると感じた。例えば横浜での鏡を使った作品では、グラインダーで鏡の裏面をブラッシュ・ストローク状に削って裏からキャンバス布をあて、まるで空間に反転したタッチ(つまり一般の絵画であれば絵の具が置かれて見えなくなるキャンバス地が、ここではタッチとして知覚される)が浮遊しているかのようなイリュージョンを展開させていたし、スパイラルでのフレームに配置された樹脂性の金魚は、「金魚=ストローク」なのだ(と池田氏が説明してくれた)。要するに、池田氏は一切絵を描く事なく、しかしそれを外的制度などの問題に還元したりもせず(無論ニヒリスティックなパロディーにすることもなく)絵について思考している。


池田氏が技法として用いているのは「変換」だ。つまり絵画においての「絵の具」や「画布」等を、それ以外のものに代替して、なおかつ同じ問題を扱おうとしている。金魚には「方向」がある。頭と尾があり、その姿を見れば「泳ぐ」というイメージは実際の運動がなくてもその金魚に付与される。だから「金魚」は「ストローク」に含まれる問題(運動の軌跡)として扱える。新作の「木の葉」は、「上から平面上に落とされたもの」、つまりタッチとして扱える。色彩に関しては、モニターなどと違って絵画は一般に反射光で見られる。池田氏は、それを発光でも反射光でもない「透過光」として扱う(同時に、それをさらに進めてはっきり「発光」させてみようとする試みが照明を内蔵した作品だろう)。基底材は木枠や画布ではなくアクリルボックスになり、しかもその底面(地)は、鏡面や透明にさせられることで樹脂の金魚や葉の内部に光を通すものとして組織される(絵画におけるうす塗りの技法の抽出にも見える)。基底材の問題はただちにフレームの問題でもある。


このような、いわば絵画における「ペインタリー」な態度の排除は、池田氏の絵画に対する、徹底した批判と同時にその可能性の再-切り出しとして見ることができる。透明度の高い樹脂の絵の具「的」扱い、厚みを維持し「立体」の側にわずかにはみだしそうになりながらかろうじて「平面」に留まる、いわば2.1次元的作品の作成、迂回した絵画へのアプローチ等ははっきりと岡崎乾二郎氏の影響を感じるが、このことはむしろ池田氏の力量の現れでもある。ぶっちゃけて言えば岡崎乾二郎氏の作品は複雑に組成されている(というか、複雑さそれ自体が目的化している場合すらある)ので、少なくとも作品のレベルで影響を受けようとすれば、かなりの能力を必要とする。私が知る限り、作品レベルではっきりと直接的な岡崎乾二郎氏の「絵画的な影響を受けることが出来た」作家は池田氏の他には古谷利裕氏くらいのものだ(古谷氏においては、実は岡崎氏の“ペインタリー”な側面をとことん引き継いでいるという面で池田氏と対極的なのだけど)。


こういう言い方はフェアではないかもしれないが、技術的に凄く上手な作家で問題意識が混濁せずきりっと起立して見える(この「上手さ」は、もしかしたらこの作家にとってはある種の条件、厳しい条件となっているかもしれない)。ただ、作家自らが言っていた絵画の「フレームの抑圧」、これは私の言葉で「圧縮」と呼んでいるものと接点があると思うのだけど、この「フレームの抑圧」との関わりにおいてアクリルボックスの作品は十分なテンションを今だ獲得していないのではないか。それはごく単純に「厚さ」の問題で、例えば鏡を使った作品であれば、支持体は薄くあるために、そこに削られたタッチ(の変換物)が置かれることで、結果的にフレームとの関係が明瞭になり、「フレームの抑圧」が作品のテンションとしてあらわれ問題化している。対して、アクリルボックスははっきりと「厚く」、立体物が配置されることでその「内部」が空間として見えてくる。なおかつ側面/背面が物理的に透明で透過光を周囲の空間から取り入れるため、光が三次元に展開し結果的に「フレームの抑圧」がそれほど顕在化しないのだ。ことに光の立体的取り入れは、作品の周囲の空間との相互作用を倍加させる。スパイラルでのグループショーが池田氏の作品にとってけしてポジティブな有り様でなかった(と私は判断したのだけど)のは、もしかすると作品に内在する問題かもしれない。


むろんこういった事もあくまで「中間報告」を見てのコメンタリーであることは強調しておくべきだし、おそらくこれらの課題は作家自らが意識的に設定したものなのだろう。池田氏はもっと大きな作品を作りたいと言っていて、これもいわば「フレームの抑圧」の増大を目指しての事と思える。驚く程明晰な人で、質問をすると間髪を入れずに詳細な説明が理路整然と、なおかつ無駄なく話される。これは例外的なことで、美術家のほとんどは言語化に時間がかかるし時には無限大になってフリーズしてしまう(人事ではなく、実際私も2日以上たってからこんなに長々とblogを書いている)。作品から発展したマティスについての会話はことに刺激的で、ほとんど絵画探偵の捜査に立ち会っているようだった(マティスのプロセスが1枚の絵に本当に重ねられているのか極めて疑わしいのだけど、「ラ・フランス」の服の部分が一貫して変化していないため、これが可能なら他の作品でもやっぱり可能なのかもしれない、という話)。


ただ1点、池田氏が言葉を何度も繰り替えした場面があって、それは制作の「ハードル」が高くないとダメだ、と言っていた時の事だ。この「ハードル」というものを私に伝えようとする時だけ時間をかけていて、ああ、この作家は制作の「ハードル」を上げて行く事に興味を集中しているのだな、と思えた。要するに絵画をリテラルに平面として扱えば「フレームの抑圧」が成り立つ、というのは池田氏にとって十分なハードルたりえないのだろう。タッチもストロークも基底材も光り=色彩もあくまで「関数」として操作しうるし、である以上その操作はとことん複雑であるべきだと考えているのが池田剛介氏だと思える。何にせよ制作途上の作品は完成した後きちんと公開されるという事で、その成果を待ちたい。