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●Freezing Point

上山氏の思考は刺激的だ。それは上山氏が美術批評家の三脇康生氏を参照しているからではない。上山氏の言う“制度分析”それ自体、つまり上山氏の提出している思考の枠組みが、美術家の制作および活動過程に対してアクチュアルに思えるのだ。無論、これは上山氏の発言に全て賛成すると言う事ではない*1し、氏の言う事が「そのまま」制作に当てはめられるということでもない。氏はあくまで「ひきこもり」について思考しているのであって、その為の参照項として三脇氏の美術批評を援用している。そこで上山氏は、自らの問題意識に基づいて三脇氏の美術批評を“変換”している。同様に、美術の現場において上山氏を参照しようと思えば、そこにはかならず一定の“変換”が必要になるだろう(それはもはや三脇康生氏とは無関係なものになっている筈だ)。


具体的に言えば、上山氏の態度を そのまま美術の制作現場に持ち込めば、“制度分析”としての制作過程が過剰に重視されてしまい、単純に言って手が止まる(作品が出来なくなる)。また、そこをなんとかクリアしても(つまり「手を動かすことが分析の一部だ」ととらえなおしても)、出来上がった作品の「質」はほとんど期待できない。終わらない“制度分析”としての制作経験こそが重要だ、ということになってしまい、「作品」はその「正当な制度分析」の証拠物件(上山氏流に言えば「アリバイ」)としてしか認知されない。


そのことを踏まえて言うが、やはり上山氏の思考は、批判的にであっても参照可能なのではないか。ことに個人的な制作から「展覧会の組織」という、社会的コミットの場面では、制作の場面より更に重要な参照項となるだろう。「展覧会の組織」とはつまり「労働過程」であり、「ひきこもっていた作品」が「社会の労働に参加する」ステップなのだとしたら、氏の重要性は良く理解できる。もちろん、だとすれば、本来作品が社会に参加する−まっとうな“制度分析”の上で参加することは、ひきこもりの状態から労働の現場に参加することとおなじくらい困難であることも指し示すのだけど。

*1:ことに浅田彰氏への評価は私は意見を異にする。また、三脇康生氏に関しては、三脇氏の評価する作家・作品を私があまり知らないことから判断ができない