恥ずかしいのだけど、子供が産まれてから何度か彼の顔をクロッキーしている。こんな事(人をモデルにしてクロッキー/デッサンする)は本当に久しぶりで、指の筋力とか、動態視力とか、視覚情報を「線」に変換する為の独特の神経の接続なんかが切れているのが分かって動揺した。また、鉛筆1本持って、手にはクロッキー帳を持って、対象をじっと見つつ、それを改めて紙の上に再構成する、というのはとても特殊な体力の有り様が必要とされて、その体力が衰えていた。ぶっちゃけ1枚描いてはほっと気を抜き、改めて集中したらまた休み、みたいな感じだ。これが、例えば普段やっているような完全な抽象画で、自分の体とおなじかそれ以上のキャンバを張って、そこに自立的な色彩やストロークの関係性を組み上げて行くような、比較的ダイナミックな「スポーツ」をする力はあるのだけど、「人を見て描く」パワーや筋力や視力、またそれを管制する脳神経は、かなりの程度独自の有り様をしているのだ。10代の頃は、こんな事を朝から晩まで延々365日(というのは大袈裟だけど、それに近い)やっていられたのだから恐ろしい。


デッサン、あるいはクロッキーというのは、最初はじめた時は多くの人が「目の前のもの/人を「そっくり」に描く」ものだと思っている。実際、一般的なデッサンは、壁と床からなるL字型の空間にモノが存在している、という状況の「再現」が、まずもって目指される。これはある程度、現実の“似顔絵”に近い。しかし、そこそこのテクニックと観察力を身につけると、こういうことは誰でもこなせるようになる。そして、その過程で、平らな紙に現実の空間を再現するなんてことは原理的に無理だと気付く(テクニックのある部分とは、この無理を隠すための隠蔽処理に他ならない)。そうすると、デッサン・クロッキーの真の目的とは、「現実を契機に、現実に即しつつ、しかしなおかつ画面の中で線や色面が自立的な関係性として成り立った状況を作る事なのだ」と目覚める(良い美術予備校ではここから先のことを「表現的」とか言って、AとかAaとかいう評価対象にしている)。


対象やモデルは十分に観察されなければならない。そして、その対象=自然の中から、ある特定の関係を取出して、それを紙面に再構成してゆく、それこそが優れたデッサンでありクロッキーとなる。アングルのデッサンが技術的にとんでもない洗練をみせながら(その洗練は極度に進行して確かに感動的ではあるのだけど)、しかし十全に完璧とは言えない気がするのは、それが今だ素朴な「似顔絵」の要素をどこかに残しているからだし(アングルが恐ろしいのは、その「似顔絵」の原理的な詐称性をとことん突き詰めて技術化し、「現実の化け物」みたいなデッサンをするところだ)、マチスの、落書きみたいなデッサンやクロッキーが、一見ふっと薄いように見えながら他に見られない「強さ」を持っているのは、上述のような「現実に基づきながら、しかしその現実から抽出されたある関係性が、画面の中で自立的にいきづいている」からに他ならない。


批評とは、デッサンだ。というか批評とデッサン・クロッキーはおなじモノだ。現実を十分に観察して、そこにある自立的な関係性を見い出し、それを改めて再構成してゆく、そのような所作が批評を形成する。今の美術館とか美術を巡る言説に「批評がない」と言われるのは、美術館、あるいは美術を巡る言説が、「現実の似顔絵」ばっかり描こうとしているからで、しかしそんな事は無理に決まっている(単純化や詐称を挟まなければ、世界を記述する言葉は世界と同じ情報量になる。そんなことはありえない)。大多数の「似顔絵」が下手(技術的な基礎の部分で破綻している)だし、希に見事な上手さの似顔絵を描く描き手もいるかもしれないけれど、しかしそれは真に優れたデッサンではないし批評でもない。繰り返せば、美術館や美術言説に欠けている批評とは、現実の複雑さを十分に観察しながら、そこに不可視な関係性を見い出して自立的に組織し、再構成するという技術と体力と運動神経と視覚能力なのだ。


今、そんな「デッサン力」を持っている人はなぜか美術館や美術批評家というよりは、少数の作家に散在してる気がする。けして彼等が即物的な意味でのデッサンの研鑽を磨いたからだとは思えない(最悪な「デッサン名人」というのが時たま研鑽のしすぎで誕生したりするし)。ただ、今美術に批評性、というものがありうるとすれば、アカデミックな教養とかそんなものではケアできない、独特の身体能力や運動神経を持ち合わせている人によってでしかなくて、こういうのって、ある程度までは教育できる筈なのだけど、それが機能していないということは、美術における「学校」が問題なのかもしれない。