上山和樹氏からコメントを頂いた(参考:id:ueyamakzk:20080219)。その中の『「制作過程」に注目するモチーフについて、ひきこもり関係者側から全くレスポンスがない』『おそらく、まったく誰にも理解されていない』というコメントは意外だった。もしかして「美術」が今、マイナーだからこういった問題設定に関心が高まらないのだろうか。それともそれ以外の理由があるのだろうか。少し柔軟に捕らえればそんな筈ないと思うのだけど。


上山氏の記述に関して、私が最初表面的なところで誤解した点がある。上山氏は「順応することは悪だ」とは言っていない。「順応しているなら、その順応している自己の有り様をその場で分析せよ」と言っている(もちろん「順応できない事が悪だ」とも言っていない)。これは私の考えだが、「生きている」のであれば、それが社会的な活動をしている人であれ、ひきこもり状態の人であれ、とりあえずはどこか1点で「順応」しているのではないか。ひきこもり状態の人は、その範囲が極端に狭いエリア、例えば自分の部屋の中の足下だけだ、ということであって、「順応」がまったくない人というのは、原理的にもう死んでいるか危篤状態にある(そういう警告も上山氏は発していたように思う)。わざわざ記述する必要があるのかどうか疑問だが、上山氏自身が一定の社会生活を営み公的にラジカルな思考を発信しているということは、上山氏も当然ある水準の順応を生きている筈だ。ただ、氏はその状況を今まさにそこで分析しているのだ。


なぜ今自分はある一定の線では「順応」しているのか?なぜ今自分はその線以上には「順応」していないのか?将来、今よりずっと「順応」できなくなる可能性はないのか?そして「順応」とは何か?このような問いは上山氏も言うように『どんなジャンルにとっても決定的』だ。自分が作品を制作できている=順応しているのはなぜか/制作できていない=順応していないのはなぜか。ここでは作品を制作できていることが悪とか善とか言っていない。『一応はうまく行っている状況を何が支えているのか、あるいは一応はうまくいっていない状況の何が疎外因子になっているのか(三脇康生氏)』その場でその制度=構造の分析が要請される。ある美術家が社会的にも「順応している」、つまり作品が相応に流通し評価を得ているなら、それは一体どのような制度=構造によってか。逆に「順応していない」なら、それをもたらしている制度=構造は何か。『素直な心で、虚心坦懐に真っ白なキャンバスに向えばいいというイデオロギー浅田彰氏)』こそ批判されなければならない。「順応せよ=黙って良い絵を描け」という「命令」の廃棄が要請されるのだ。


先のエントリでも書いたが、上山氏の思考を「作品」に繋げようとすると慎重にならなければならないし、変換が必要になることは改めて強調しておくべきだろう。「作品」それ自体と「作品の制作態度」は別だ。「制度分析」を経なくても「作品」という奇妙なものは成り立ちうるし(フィリッポ・リッピやマチス、あるいは狩野永徳高橋由一に「制度分析」はなかったのではないか)、「制度分析」を経たからといって「作品」が出来るわけではない。「作品」は「作家の人生」から自立した存在だし、そもそも「作家」という存在自体「作品」から遡行されて組織されるのだ。私が三脇康生氏の批評を批判的な形で読むのも、三脇氏がどこまでいっても「作品」を自立的に扱わず、作家の有りよう/制作プロセス(態度)の「証拠物件」として作品を論じているように思えるからだ*1。私は十全に三脇氏のtxtを読み込んでいないのだけど、少なくとも私の読んだ範囲では、三脇氏のtxtでは、作品は語られておらず作家が語られているように思う。


いずれにせよ、私は(上山氏のいう)「臨床」の有り様を悲惨にしているのは「参照」という態度の減衰、あるいは蒸発に原因があるように思う。「参照」というのはあくまで自らの思考のステップとして他者の思考を捕らえる態度であって、単純な賛成や反対とはまったく違う。思考と名付けられるものならこういった「参照」という態度はごく当然の前提だ。私が、私の制作において、上山和樹氏と三脇康生氏と浅田彰氏を同時に「参照」可能であることは、論理的にごく正当だ。これはwebの即時的なコミュニケーションが増幅したネガティブな側面かもしれないが、そういった当たり前の「参照」が、いたるところで敵とか味方とかいった幼稚な政治に変質していないか。それではまともな批評(臨床)など成り立たない。当然、高度に批評的な言説は高度の政治性を持つ。しかしその政治は、既存の政治そのものを覆してしまうような政治であって、誰がどの陣営にいるとかいないとかいう低劣な縄張り争いの強化とは別次元の話しだ。


もちろん、このような言い方は、私があくまで美術の現場で上山氏を「参照」する場面で言える事だ。ひきこもりの現場には現場なりの切迫した状況があるだろう。だが、それは私にとって「人事」なのか。「ひきこもっている作品」とか「ひきこもってしまった美術」といった、ある種便利な「応用が効く」という話だけではない。将来、自分自身(あるいは家族)が即物的にひきこもらない、と断言できる人などいはしない。

*1:三脇氏はどこかで古典を論じているのだろうか。三脇氏のフレームでは「精神分析」以降の近代美術だけがトリミングされているように思うが、それでは「美術」が「精神分析」の下で利用されてしまう