企画をたてる、という事の、内実の多くの部分は「都合を合わせる」ということなのだと改めて思う。絵を描くというのは、なんというか、恐ろしいくらい個人的なことで、放っておくとどこまでも一人きりでやれてしまう。もちろん正確には、制作は、自分というものが「ひとり」なのではなく、むしろ指先から腕から足から、目から口から心から、見事なくらいてんでばらばらなものであることを意識しながら、それらを面白く組織しつつ、あるモノを組立てる事ではあるのだけど、しかしそうは行っても「じぶん」が、社会的な次元では確固とした「ひとり」であることはある程度確かで、ごく単純にそのばらばらな「じぶん」も時間は相当程度共有できていることは間違いない(更に緻密に言うなら、時間も本当は自分一人の中で共有しきれてもいなかったりする。頭は絵を描くことをはじめているのに、手がそれについて来ないとか、普通にある。けど、とりあえずは)。


今私が「組立」でやっていることは観念的なことでなく、何人かの人と連絡をとり、こちらの意図を説明して、相手に興味がもてるかどうかを訪ね、その上で相互の空いている時間を見つけて、特定の場所で顔を合わせ、詳しい話をし、また相手から詳しい話を聴いて、双方の接点を見つけて、それを実際の成果に結び付ける形態を一緒に考える、ということだ。打ち合わせ、という言葉があるけれども、改めて口に出して言ってみると、なかなか味わい深い言葉だと思う。複数の人間の、出っ張ったり引っ込んだりしている部分=都合を、打って、合わせていくのだ。そこにはぶっちゃけ、すごく俗な利益とか損得の話も一定量含まれているし、もっと単純に、今日はこちらが乗り気だけど相手が疲れているとか、どちらかが前提だと思っていてもどちらかにとってはそうではないとか、そういう事もある。正直に言って、今回の企画では私の事を一定の期間見てくれている人との折衝が多いから、一から未知の人を説得しなければならないという苦労はないのだけど、だからこそ、少しでも気を抜けば、今までほそぼそと培ってきた信頼関係が、一気に崩れることにもなりかねない。


こういう事は、私にとっては本当に“向いていない”作業であることに間違いがない。私は根本的におっちょこちょいで、メモがとれず(信じられないような悪筆なのだ)記憶頼りで、順番を良く考えず思いつきで行動する。相手の様子を伺う事が下手で自分の気持ちばかりを一方的に話してしまい、十分に相手の話を理解できず、とんちんかんな受け答えをしてしまう。企画者になってはいけない人間が立てた企画ほど迷惑なものもないわけで、心がけているのは「人様にあまりご迷惑にならないように」とか、そういう小学校の道徳レベルの話しだ。知っている人であっても、言葉遣いは丁寧にすべきだろう。しかし、あんまりしゃっちょこばっても効率がおちる。連絡事項のメール1本打つのに、何度も見返して推敲したあげく、送信後にものすごく簡単なミスを見つけて落ち込む、とか、そんな事ばっかりやっている。


それでも、今、こういう事がイヤにならないのは、昔、知人達とやったMONOBITという不思議な集まりでの遊びで、「ソラノリレー」というのがあったからかもしれない。

今でもページが残っているのが感動なのだけど、ここで私が発案して皆でやったことは「都合を合わせる」ことの視覚化だったのだと思う。もう5年も前の夏の遊びだった。まだ脳硬塞で倒れた父が生きていて、その病院へ週末ごとに通いながらやったプレーだった。この時、きっと「組立」というモチーフの、ある特定の部分は、とりあえずスープ状ではあっても形成されていたと考えるのは間違いだろうか。とにかく、「組立」では、作品の制作から社会的な折衝まで、全部を貫いて、企画にまつわる全ての出来事を「瑣事」とか「しかたなくする作業」とかではない、思考の一局面なのだということを認識できる。誰かと誰かの時間を調整して、場所を決めて、利害を出し合って、その接点をつなぎ合わせていく。その全てが「組立」であり、それは、木枠を組んで、画布を張って、絵の具を練って、ある絵を描いていく、その工程と連続している。


いうまでもなく、作品の制作と企画の実行は違う。私の企画の前提にはあくまで「作品」がある。「作品」があった上で、いわばその作品の“生き方”を考えるのが「組立」であって、作品抜きに「組立」も何もない。端的にいえば、今一番時間をかけているのは、当たり前だけど打ち合わせでもメール書きでもなく作品の制作で、これは企画があろうとなかろうとされる事だ。今描いているものが「組立」に出るかどうかは分からない。なにしろ「組立」では、作品はあくまで有りものを持ち寄るのが方針として定まっているのだから。実際、今イメージしている出品作は全部既存の作品だ。当たり前の話で、未知の作品がイメージできるわけない。搬入当日には、きっと今よりイメージできる既存作品が増えている(増えていてほしい)という、希望的観測があるだけだ。なんの保証もない。毎日、ちょっとずつ、その希望を具体的にしていっている。その合間合間に「組立」は、理解ある方々のおかげで、前進していっている。感謝するしかない。