ずいぶん時間がたってしまったけど、上野の西郷会館内にあるレストラン「聚落台」に行ってきた。西郷会館は土浦亀城による建築で、銀座シネパトスの入っている三原橋センタービルや立田野ビルとならんで現存する土浦建築の貴重な例だ(参考:id:eyck:20060509)。解体が決まっているらしく、現在は聚落台以外のテナントは閉っているように見える。私はこの建物は上野公園への近道としてしか入ったことがなく(建物のはしっこに、そういう通路が設けてあるのだ)、解体前に一度は内部を見たいと思っていたのだけど、いかんせん用事がない。そうこうしているうちにテナントはどんどんシャッターが降りてしまい、こりゃもうダメかなー、と諦めかけていた。だけど「聚落台」だけはなぜかちっとも閉る気配がない。で、ついにある日上野で昼食をとるというチャンスがやってきて、これは、と勢い込んだ。


と、盛り上がった気分をいきなり外してくれたのが予想外に混雑していた店内状況で、休日の昼時だったからか閉鎖が決まっているレストランとは思えない盛況ぶりだった(決まっていないのか?)。満席のため行列ができていて、一度入ったら不愛想な店員さんに「一度建物を出て、反対側から入って並んでくれ」といわれスゴスゴと従った。店内は酔客や子供の声が絶えまなく満ちていて、分煙などという言葉をかき消すようにタバコの煙りがスモッグ状に浮いている。なんとか狭い席を割り当てられて、考えた挙げ句のカレーとビールを注文した後店内を見渡すと、タイムスリップした気分になった。古めかしい制服のウエイトレスさんは、酔っぱらったおっさんの絡みを艶やかにかわしていて、おもいきり「休日に動物園にきました」的家族が、クリームソーダとかお子さまランチとかを子供に与えている。不思議な事に客のファッションまで狙い済ましたようにあか抜けない。あっけにとられていたら、おもいがけず素早くカレーが出て来て、食べれば笑える程「カレーライス」だった。


一応当初の目的の建物自体もざっくり見た。台地と低地の段差を、まるで分厚い箱状の擁壁で「ヘ」の字にせき止めたような西郷会館の特徴がよくわかる、途中で一度折れた極端に細長い空間で、客席と通路もその長軸に合わせて川状にセットされ、動線が明解きわまりない。これだけ混雑していても、店員はスマートに移動できているのが観察できる。古めかしい中国風(?)の欄干や手すりなどを外して考えれば、比較的地味な外観よりもずっと面白い内部空間を孕んでいる。客席の間隔が余裕なく詰めてあるので狭さは感じるが、この狭い客席から、すーっと1点消失のパースがついた長い通路方向を見ると、そのギャップがより際立つ。この、奇をてらわない空間が面白いのは上記のように一度「へ」の字型の屈折が入っているからで、これによって一望で見渡せそうなパノプティコン状態が寸前で文字通り折られてしまっている。もちろん土浦はわざとそうしたわけではなく、彼は単に特定の台地と低地の段差に沿って建物を作るというオーダーを、一切隠したり変形したりすることなくそのまま建物の構造に反映したのだ。


しかし、こういう事は「聚落台」という奇妙なレストランの異常な活気の奥に消え去っている。ラーメン博物館みたいな、狙ってやったノスタルジー趣味とは違う、ベタの極地みたいな古臭さがさびれることなくマジで充溢しているのがレストラン「聚落台」で、なまじ他のテナントが閉鎖されているために極端なコントラストを示している。はっきり言うが、ここまでベタだと、“ああ、昔ってたいして良くもなかったんだなぁ”という感想すら浮ぶ。端的に「カレーライス」は美味ではない。ましてや立ち篭めるタバコの煙りの中で食べるのではよりおいしくない。店員のサービスも効率第一で親切でも上品でもないし、なおかつ値段だけは現代相応に高いのだ。単に外食がしたいのなら私は絶対他の店を選ぶ。しかし、こういう、品がなく、けして清潔でもなく、豪華の意味が明らかに履き違えられた、どこか猥雑な活気が、土浦亀城のモダニズムをすっと背後にしりぞけていることは、恐らく建物自体にとって、とても良いことなのではないだろうか。


現在、モダニズム建築を再考すると言ったとき、そのプログラム自体がショーアップされて提示される例が多いと思う。しかしこれは本末転倒だ。本来モダニズム建築というのは原理的にその機能だけがあるもので、結果としては建物自体は消去される筈なのだ。それが、モダニズム建築の空間自体が美しいとかかっこいい、とかいった趣味的鑑賞対象になったとたん、モダニズム建築はポストモダニズムの中での、様々に並列された歴史様式の一つでしかなくなる(バロックが好き、とかゴシック教会は素敵だ、といった話しと同じになる)。装飾は罪悪である、というテーゼが装飾化するという倒錯が、今のスノッブな建築趣味者の間にはある−例えば、私自身の「趣味」の中にも。ポストモダンの雑多さに飽きたからそろそろモダンでいこう、という、建築だけでなく造形美術全般にちらほら目立つモダニズム“ブーム”の空疎さは、一部の真摯な試みを除いて状況を悪化させつつある。


こんな中で、カッコよくもなければ上品でもない、古びて、よごれて、けばけばしい看板でおおわれてしまっている土浦亀城の西郷会館は、まさにその有り様によって、本来のモダニズム建築の姿勢を示している。コルビジェやグロピウスが誰に向けてモダニズム建築を進めていったのかといえば、けしてスノッブなんていうものではなく「大衆」に向けてなのであって、そういう意味では土浦亀城の西郷会館は、真に完璧な保存状態にある。今さらなのだろうが、なんとか残せないか。聚落台コミで(聚落台の、あの収益力がコミでないと、結局ケバケバしさを含めて全体が「趣味」になってしまうので、いわゆる動的保存という主旨を超えて、「現役の商業ビル」として西郷会館が残されるといいと思う)。