photographers' galleryで北島敬三写真展「PORTRAITS 1992-2007」。会場は二つに分かれている。大きい方の空間では真っ白い背景に正対した男性が1人、横長の画面中央に白いシャツを着てバストショットでカラーで写っている。同じモデルが同じフォーマットで、1992年、93年、94年、95年、96年、97年、98年(二回)、2000年、2001年、2003年、2007年と撮影されている。小さい方の空間でも違う人物がやはり同じフォーマットで、1993年、95年、96年、99年、00年、2005年と撮影されている。各写真はいずれも白いフレームに額装されている。キャプションには各撮影年と月、モデル名(大きい方の空間はMakoto Shinobuとある。小さい空間の方は失念)がクレジットされている。光量や色調もそろえられ、システマティックに撮影された作品群は、その並列された展示からいつしか同一人物の、連続した時間経過での老化を浮かび上がらせているように感じさせる。背景も服も真っ白で情報が含まれず、写っている有意なものは「顔」だけだ。こういった写真が、年/月のクレジットされたキャプションと共に順番に並べられれば、誰でもそこに特定の個人が重ねた時間を読み込む。変化するのは髪の毛や肌だけで、これをアニメーションのようにすれば僅かに、しかし確実に老化してゆく人というものが構成されてゆく。


このような受け取り方は少し考えれば疑問を産む。クレジットされている年・月は本当に各写真の撮影年・月を指しているのか。詐称がないとしても、どこかでミステイクが発生している可能性はないか(たとえばおおよその流れは合っていたとしても、どこか途中の2枚だけが前後入れ代わっていたとして、それを観客が、もしかしたら撮影者やモデル本人も見抜くことは難しいだろう)。さらにこれらの写真は本当にストレート・フォトなのか。フォトショップなどのソフトウエアでデジタル上で加工されたものではないという確証はあるのか。さらに最初から「Makoto Shinobu」なる人物など存在せず、Mayaなどの3Dソフトで一から作り上げられた人物イメージではないのか。ネガや記録を見せられればいい、という問題ではない。ベースとなるモデルがいたとして、メーキャップ技術で「老化」を装おうことは可能だし、だとすればこれらの写真が全て1日で撮影された可能性も残る。一見して加工がしやすそうな白バックは、むしろフルデジタルによるモデリング画像だと取る観客の方が現在は多いかもしれないと想像させる。


これらの写真が同一人物の連続した写真であるという保証があれば、そこに流れる一定の時間や、逆に時間の中で「同一」と思われている個人の、意外な程の連続性のなさ/同一性の不確定さが露出しているという言い方が可能になるが、現在の写真/イメージの条件下においては、そのような保証はもてない。もしこの北島敬三写真展での作品が、ある個人を定点観測的に、一定の時間間隔をおいて撮影したものだ、と確信されるとすれば、その「信用」はどこから来るのか。森山大道に師事したという作家の来歴からか。日本写真協会新人賞、木村伊兵衞賞等を受賞した写真家という権威故か。あるいは展示されている空間が北島氏をメンバーに含む、写真家達の自主運営ギャラリーであるという文脈によるか。そのいずれも排除はできない(だから、北島氏のこのシリーズの作品にとって、北島氏の写真家としての高い評価は、むしろマイナスに働くのだ)が、しかし、会場で個々の写真作品と対峙している時の感覚を、こういった作品外のコンテキストに還元することは出来ない。そのような操作が取り逃がすのは、個々の作品、それらが置かれている文脈や、あるいは隣り合う写真どうしが生み出すストーリーではない、切り離された、1枚1枚の写真が産んでいる「質」だ。極論を言えば、この質さえあるのなら、作品自体の作られ方は問われない。


単純に言ってこれらの作品は、個々にポートレートとして「質」がある。この「質」とは、工芸的な品質、商品としての質の高さを含むが、それだけではない。工芸的な品質という側面はむしろ通り一遍のものであって、しっかりとしたフレームや弛みのない額装、確かなプリントといった側面は水準以上ではあっても極端なクオリティではない。無駄な情報や写っているイメージに夾雑物を挟み込まないための、必要最小限度の“整え”と言っていい。ここでの「質」は、そういう事よりはむしろ調整された環境や光源や機材の選択であり、ピントや絞りの適切な管理であり、それらを基盤にした対象との関係性、その関係性が生み出す微妙な「顔」というものの丁寧な定着だろう。ごくシンプルな意味での写真としての上手さ、像としての純度の高さが「PORTRAITS 1992-2007」という展覧会の下部構造を形成していて、だからこそ私(達?)はそこに連続する写真の生み出す「流れ」よりは、個々の写真の切り取った「瞬間」を見るのだし、その個別の瞬間の立上がりがシャープだからこそ、連なる個人の時間軸に沿った老いよりも、「個人」を微分している時間/「個人」ははたしてずっと「個人」なのかという同一性の不確かさを感じるのではないか。


こういった言い方が素朴にすぎることは認めざるをえない。しかし、北島氏の写真において、デジタルイメージ/あるいはデジタルテクノロジーといったものと、氏における「写真」の差異を形成しているのは、結局のところ1枚1枚の撮影・プリントといった極めて基礎的なレベルの、しかし取り替えのきかない仕事なのではないか。こういった基盤(それは「手技」と言っていいのかもしれないが)の上に、いかなるコンセプトを構築するかといったところに写真家としての北島氏の姿勢があらわれる。この姿勢こそ、いかなる変換や加工も受け付けない北島氏のハード・コアなのだと思えた。


●北島敬三写真展「PORTRAITS 1992-2007」